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にっきニキ

2023/1/26

揚げ足を取ることはそんなに重要なことだろうか。足元を掬いあっていても何も救われない。
小林秀雄が、批評とは生産の塩であるべきで、そうでなければただの消費に過ぎないというようなことを書いていた。批評の体で堪え性のない消費を繰り返していては、社会が摩耗するだけではないだろうか。

2023/2/13

小説を書き始めると、なんだかそわそわして他のことが手に付かなくなってしまう。頭の中で考えていること、浮かんでいるイメージ、言葉にしたいあいまいなものを、早く定着させないと霧散してしまいそうな気がするから。
かといって、前のめりになれば筆が進むかというと、そういうわけではないのである。

2023/2/13

新宿シネマカリテにて、コンパートメントNo.6を見る。
旅の移動はできるだけゆっくりのほうがいい。

2023/3/11

朝から中野のベローチェ(南側)でモーニング。来週読書会をする予定のヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』を読み進める。
小説の〈誠実さ〉が環境によって阻害されるということ。

今日はこの後三茶に行って人と会う予定。一気に春らしい陽気。
昨日の夜、高円寺の美容室から帰るとき、ハクモクレンがふかふかしていたのを見た。

2023/3/12

昨日はたくさん歩いた。三茶から学芸大学前に向かう道すがら、コブシがばららと開いているのを見る。最初はハクモクレンだと思ったのだけど、今日改めて違いを調べてみて、コブシだと分かった。ハクモクレンは開ききらずに天に向かって咲くから、花芯が見えないらしい。
夜に中野を歩いている時には、白い椿が星雲のように夜の街に溶け込んでいた。

春に部屋を掃除したくなるのはなぜだろうか。
新たな出会いや活動がざわざわと押し寄せ、生活の変容をもたらす変数が多くなるから、それに備えて少しでも身辺を整理しておこうと思うのかもしれない。

2023/4/9

目的や意義などというあるようでないようなものを据えず、書くために書く、学ぶために学ぶということ。
できるだけ軽薄にすること。ただペンを走らせるということ。
意義の重みを振り払うことで、身軽になって動くことができる。

2023/4/9

新宿バルト9にて『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を見る。突き抜けた明るさでエンパワーしてくれる良い映画だった。二度泣いてしまった。
あらゆるものが流動的で分散していて接続しているような世の中は、とてつもない可能性、ifの分岐に満ちた世界に思えるけど、一方で多くの人が生きづらさを感じていて、その全てを払拭することはできないからこそ、まずは現状を抱きしめてあげることが大切。

2023/4/29

最近エッセイとして書くことがなくなってきた。社会人に戻って生活が単調になったのもあるけど、アンテナを立てたり、切り口を探していないと、書けることがなくなっていく。小説を書いていて、そっちに労力を割いているからというのもあるけど。

文を書くというのは積み重ねからしか生まれ得ない。泥の中から手探りで塑像を象るような、身体的な積み重ね。

いつも通りベローチェに行く。アリステア・マクラウドの短編集を読み直している。
高円寺に新しくできた本屋に行こうかと考えるが、ふと思い立って早稲田松竹へ。『イニシェリン島の精霊』のチケットを買う。
上映まで時間があったので、すぐ近くのケバブ屋でケバブサンドを購入し、店の前で食べる。路面店でケバブを買ったのは初めて。

イニシェリン島の精霊とマクラウドの短編にはどことなく繋がる点がある。孤島、民話的要素、大陸や本島との断絶。

2023/5/3

午前中に少しだけ小説執筆を進める。何のために書くのか、ということを正確に言語化できる(と考える)人はそもそも小説など書かないのではないだろうか、などと思う。

午後から新宿。紀伊国屋で本を3冊買う。アリステア・マクラウドの長編『彼方なる歌に耳を澄ませよ』、岸本佐知子編の翻訳短編集『楽しい夜』、洪愛珠による台湾食エッセイ『オールド台湾食卓紀』。
時間を潰すために喫茶店「楽屋」による。いそべ巻きと日本茶。後ろからは寄席の話が聞こえてくる。買ったばかりの短編集からルシア・ベルリンとミランダ・ジュライの短編を読む。1時間半ほど滞在して店を出る。
20分に一回再起動がかかるようになったスマホを買い換えるため、予約していたアップルストアへ。バッテリーを交換したら直るかもしれないと言われて、バッテリー交換の予約だけして退店。

これから買った本を読み進めようと思う。

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