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日々の「す」と「だま」

2月4日
物を書く時間は意識的に取っているつもりだが、思うように書き進められていない。早く書けることが必ずしもいいことだとは思わないが、時間を空けすぎると、文章の密度が薄くなってしまうように感じる。
空気の穴というか、「す」が入ってしまう感じ。「す」って漢字でどう書くのだろうと調べる。「鬆」と書くらしい。ウィキペディアには、「鬆(す)とは、本来は均質であるべきものの中にできた空間をいう」と書かれていて、「対義語として、均質であるべきものの中にその物質が著しく固まって存在する場合、『だま』と呼ぶ」とある。文章や日常にも、鬆が入るときやだまができるときがある。プリンやケーキと違って、滑らかであればいいという話でもないのだが。

2月11日
読むのも書くのも遅々として進まないということがある。これには遅いなりの理由があるのだと考えてみる。文がだまになっているのだ。それまでは柔らかい砂の足場だったのに、急にごろごろとした礫岩に足を獲られるような。一歩ごとに自分の足場を確認し、次に足を掛ける場所を探す必要がある。歩幅にはムラができ、リズムは地面に持っていかれる。
それは必ずしも悪いことではないような気がするが、辛抱が必要である。そして覚悟が。その岩場を乗り越えたとしても、素晴らしい景色が広がっているとは限らない。それでもなお進んでみるという覚悟。
辛抱や覚悟という言葉が、その旅路に背負う荷物として重すぎるなら、それを諦観と言い換えてもいいかもしれない。徒労に無理やり意味を持たせずに、そのまま徒労として引き受ける態度。徒労でもいいじゃないかという達観。
大人になってから、徒労だったと言える経験を持つことは意外と難しいのではないだろうか。


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