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白桃と金木犀

私は白桃が好きだ。味や見た目はもちろんだが、白桃には文学的な魅力を感じている。それには明確な理由がある。野呂邦暢の短編小説『白桃』の影響だ。
この作品を最初に読んだのは、センター試験の現代文の過去問だった。調べてみたところ、『白桃』が問題文となったのは2003年らしい(ちなみに私が大学受験したのは2013年)。

『白桃』は食糧難の戦後が舞台の小説で、幼い兄弟が両親に頼まれたお遣いの中で、大人たちのいざこざに巻き込まれる。意地と弱気、惨めさと苛立ちの間を揺れ動く兄と、そうした兄の動揺にあてられながらも、異なる世界を見つめる弟。遣いを果たせず途方に暮れる帰り道に漂う木犀の匂いが幼い兄弟にせつなく香る。
そしてこの小説において強い印象を残すのが、白桃である。

皮をむかれた桃は、小暗い電灯の照明をやわらかに反射して皿の上にひっそりとのっている。汁液が果肉の表面ににじみ出し、じわじわと微細な光の粒になって皿にしたたった。〔……〕淡い蜜色の冷たそうな果実は、目をとじても鮮やかに彼の視界にひろがる。

野呂邦暢『白桃』

この微視的な描写の美しさ。
戦後食糧難の秋夜という薄暗い時間のなか、白桃は確かな潤いと質量をもってそこに在る。まるで果皮がむかれた月ように光を放っている。
受験勉強の息抜きがてら問題集を開いては、この文章を度々読み返した。無事大学に進学してしばらくしたころ、ふとこの小説を思い出して、そこから野呂邦暢の本を何冊か読んだ。

『白桃』に加えて受験期に繰り返し読んでいたのは、宮本輝『星々の悲しみ』、宮沢賢治『よだかの星』だった。どれもあまり明るい話ではないが、だからこそ思春期の感傷に沁みたのだと思う。
そのなかでも『白桃』は、男兄弟の弟である自分と重ねて読めたこともあって、特に懐かしく感じられたのかもしれない。

ちなみに、この文章を初めて読んだときは、街に漂う「木犀の匂い」というのがいまいちピンと来なかった。生まれ育った札幌では金木犀を見かけたことはなく、もちろんその香りを嗅いだこともなかったからだ。
フジファブリックの「赤黄色の金木犀」も大好きな曲だったが、秋と金木犀の結びつきはよくイメージできていなかった。
大学進学とともに上京して初めて、金木犀の匂いを嗅いだ。甘い芳香が、したたかなまでに街を覆うのだということを身をもって識った。この激しい主張は、確かに季節の象徴として桜や雪に匹敵するなと思った。

話を戻すと、こうした小説の描写によって、自分の中での白桃の味わいが一層広がったと思う。白桃を見るたびに、その「微細な光の粒」をしげしげと眺めるようになった。

文学作品の中の果物で、もうひとつ強く心に残っているのは、あまんきみこの『白いぼうし』の中に出てくる夏みかんである。

運転席から取り出したのは、あの夏みかんです。まるで、あたたかい日の光をそのままそめつけたような、みごとな色でした。
すっぱい、いいにおいが、風であたりに広がりました。

あまんきみこ『白いぼうし』


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