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米を食べるための店である松屋の米の美味しさと牛丼屋である吉野家の米

俺にとって、吉野家というのが、もう少し歩けば松屋があるのなら確実に松屋を選ぶような扱いの店になっているのは、つゆの問題だけでなく、ご飯の問題も大きかったのだと思う。

今はそういう張り紙を見なくなったけれど、一時期の松屋は、自社農場だか契約農家だかの米を使用とポスターが張り出されている店があって、そういう店では、ファストフード店の米としてはびっくりするほど食感もいいし米の風味も感じられる美味しいご飯が食べられた。

その一時期ほどではないけれど、その前後も松屋というのは、牛丼チェーンの中では、米自体が美味しいと感じられるような米をいつも食べさせてくれていたように思う。

自社農場だか契約農家だかの米を使っていたのはいつ頃のことだったのか、少しインターネットで検索してみたけれど、それらしい情報は見つけられなかった。

逆に、なんとなくの記憶として自社農場というポスターを見た頃に近そうな2012年から、松屋はオーストラリア産の米もブレンドして使うようになっていたというのを知った。

そうすると、自社農場だったか、契約栽培だったかのポスターが張ってあったのは、2012年よりは前だったのかもしれない。

けれど、松屋は今も店によって使っている米が違っていて、自社サイトでは店舗ごとに使っている米の産地を検索できるようになっていたりする。

店舗によって米が違っているというのは、かなり昔からそうで、外国産米をブレンドした米を多くの店舗で使いつつも、実験的に特定の店舗では自社農園の米100%のご飯を出したりとか、そういうことをしていたのかもしれない。

松屋のお米として売られているものは国産米100%のタイプだけらしい

どちらにしろ、2012年とか、その後数年というあたりは、けっこう頻繁に松屋に行っていたし、いろんな店舗で食べていたと思うけれど、松屋のご飯は安定して美味しかったように思う。

けれど、それはそうなのだろう。
そもそも、外国産の短粒種の米というのは問題なく美味しいものなのだ。

アメリカでアメリカ産のコシヒカリとか他の短粒種の米を食べたけれど、遜色なく美味しかったし、むしろ、日本のスーパーで5キロ1500円とか、いやに安く売られているコシヒカリなんかよりははるかに美味しかった気がする。

もともといい米を集めて、いい具合にブレンドして、安定的に美味しいご飯をだしていた松屋なのだ。

自分たちで選んだ質が悪いわけではない外国産米を混ぜたいように混ぜたとしても、外国産米が相対的に安いのならむしろ美味しくなるくらいで、不味くなる可能性などそもそもなかったのだろう。

松屋の米は何が美味しかったのだろうと思うけれど、松屋の米というのは、俺からしたときに、自宅で炊くときでも、定食屋で食べるときでも、こういうご飯がちょうどいいと感じるようなご飯だったのだと思う。

松屋の米はファストフード店の中では美味しいほうだったけれど、松屋の米に何か特別な美味しさがあったというより、むしろ、吉野家がいつ食べてもなんだかしっくりこなくて、どうしてこうなんだろうと思ってしまうような微妙さを感じさせる米だったという感じなのだろう。

もちろん、そもそものところで、吉野家は牛丼屋だけれど、松屋はカレーとか焼肉定食なんかも出す店として広がっていったのだし、両者を同じ牛丼チェーンとしてどっちのご飯が好みなのかを考えるのは不適切なのだろう。

吉野家の場合は、牛丼という味の濃い汁がかかった状態でしか米を食べられないということを前提に米を選ぶことができたのだ。

定食で白いご飯をどんぶりでそのまま食べてもらう松屋からすれば、ご飯はご飯単体で美味しくないといけなかったけれど、吉野家は牛丼として食べて美味しければそれでいいという基準で米を選ぶところから始まったのだろう。

けれど、そうだとしても、吉野家の米はどうにもぐずぐずした感じにやわらかくて、それはどうしてなんだろうとは思ってしまう。

丼ものにする場合は、米はやわらかくなりすぎないように炊くものだというのは、昔から言われてきたことだったのだろう。

吉野家にしたって、丼ものの店として、やわらかすぎない米を合わせようとはしてきたのだと思う。

実際、吉野家のサイトを見てみると、米についてはこんなふうに語られていた。

吉野家の牛丼に求められる米は、昔から一貫して「たれ通りの良い米」とされています。軟らかく粘りの強い米は単体ではおいしいものの、牛丼に合わせたときのたれ通りは悪く、やがてたれを吸水してベチャついてしまいます。そのため、牛丼には粒立ちが良く、程よい粘りと甘みを併せ持つ米が求められるのです。

https://www.yoshinoya-holdings.com/csr/vol2.html

(※ 米の話とは別だけれど、それを読んで、やっぱり吉野家的には、「つゆだく」とかとは言いつつも、あのつゆというか汁は「たれ」なんだなとも思った。(和風の煮物ではないバランスにしていて、つゆというより、たれがからんだ牛肉を食べている感じになるのが吉野家の個性なのだろうということについては、こちらで書いている))

吉野家としては「たれ通りの良い米」を目指しているのだとして、それであの米を出しているというのは、どういうことなんだろうと思う。

吉野家というのは、松屋よりも、なか卯よりも、牛丼太郎よりも、たれを吸水する前から水分多めでベチャついているし、持ち帰りなんかをすると、かなり米が潰れている感じがするような食感になる米の炊き方をしているのだ。

(すき家はあまりに食べた回数も少ないし、直近でも五年は食べてないし、ほぼ覚えていないけれど、米自体としてはさほど美味しさは感じなくて、なんとなく全体に吉野家の米に似た感触だった気がする)

サイトでは「軟らかく粘りの強い米は単体ではおいしいものの」としていて、確かに吉野家の米はもちもちはしていないし、単体としてコクが強くて美味しいタイプの米を選んではいないのだろうけれど、炊き具合としては、あきらかにやわらかめを設定しているのだろうと思う。

吉野家の人にとっては、吉野家的な牛丼像の範囲の中で、より「たれ通りの良い米」を追求しているつもりなのだとしても、少なくても牛丼チェーンの中では、吉野家こそがたれと合わさった米がぐずぐずしている店なのだ。

けれど、それはやわらかく炊こうとしているからではなく、米の仕入れ価格を抑えて、あまり質のよくない米を多く使っていることで、割れている米が多かったり、ぱさつきやすい米だからぱさつかないくらいまで水分を多くしているとか、そういう要因でああなっていることなのかもしれない。

もう十年以上食べていないし、今はどうなのかわからないし、当時の記憶も曖昧だけれど、てんやというのも俺にとっては米がやわらかすぎる店だった。

揚げたてだし、香ばしさとか、天ぷら自体を味わっていられるくらいのバランスになっているし、美味しいなと思って、大学生の頃は、ひとりではほぼいかなかったにしろ、友達が候補にあげたりしたときは、てんやいいんじゃないと一緒に行っていたのだ。

美味しいと思っていたのに、行かなくなったのは、似たような選択肢として、牛丼のほうが安いし、牛丼のほうが好きだったからというのが大きかったのだろうけえれど、かといって、たまには食べてみるかという気にもならなかったのは、てんやで食べたときの満足感がそこまでのものではなかったからで、それはどうしたって、てんやの米がそこまでおいしいものではなかったからだったのだと思う。

てんやで食べるときだって、米をもっと美味しく感じて、美味しい米を食べにいく店としても満足できていたのなら、天ぷらは好きだし、たまに行く店になっていたはずなのだと思う。

逆に、世の中に松屋という店がなくて、牛丼屋には吉野家とすき家しかなかったのなら、ささっと米を美味しく食べられる店もないしと、吉野家ばかりではなくてんやにもちょくちょく行っていたのだろう。

住んでいた高円寺にもてんやはあったのに、たまにしか行かなかった

てんやにしても、天丼なのにどうしてこんなに安いのだろうと思っていたけれど、丼もののご飯だからと、米の部分でかなり原価を圧縮していて、それでどうしても風味も食感もいまいちな米になっていたということなのかもしれない。

けれど、そんなにまではっきりと、米が美味しく食べられるかどうかで、自分にとってのその店の価値が決まってしまうというのは、我ながら何かアンバランスなものを感じてしまう。

特に、てんやにしろ、吉野家にしろ、丼ものの店に対して、そんなにも米自体の美味しさを求めるというのは、丼もののよさというのがわかっていないだけなんじゃないかとも思えてくる。

実際、俺は牛丼を食べるにしても、米を食べるのがメインで、頭(具)をご飯のおかずのように思いながら食べていたのだと思う。

そういう意味では、丼ものとしてのご飯の美味しさというのを俺はまったく理解していないのだろう。

たしかに、俺はつゆだくにしたいという気持ちがわからなかったし、中学生とか高校生くらいの頃には、天丼でもカツ丼でも、丼の底に汁が溜まっていると、いつもなんだかなという気持ちになっていた。

実際、牛丼屋でつゆだくを頼んだことはないし、「牛丼並」とだけ言って頼むと汁がかかりすぎていることがあるから、念のために「つゆ半分くらいってできますか」とか、嫌な顔をされたら「つゆ切りでもいいです」とか言って頼んだりしてきた。

そんなふうに牛丼を頼むのだから、吉野家のひとたちがたれ通りがいい米を模索した結果にまったく共感できないのも当然なのかもしれない。

そもそも俺からすれば、ご飯こそが美味しいのだから、よりご飯が美味しく食べられるのがよくて、そのためには、つゆだくは絶対ダメで、最悪つゆ切りですらよくて、つまり、米はたれに通ってなくてもいいということなのだ。

そんなつもりで食べていたのだから、どうしたって松屋のほうが食べていて満足度が高かったというのは、当たり前のことだったのだろう。

もちろん、そもそも牛丼のつゆの味として、俺にとって吉野家は牛丼チェーンの中で特に美味しく感じるものではなかったのだし、米だけの問題ではなかった。

けれど、それでも、米がもっと美味しかったなら、吉野家で食べる満足感はまったく違ったものになっていたのだろうなと思う。

あまり風味を感じないぐずっとした米を素通りするようにして、漫然と吉野家のしっかりすぎるくらい味のついたつゆの感じに浸っていることになるから、口も疲れてくるし、あまり好ましくない風味をしっかりと感じすぎてしまうようになっていたというのもあったのだろう。

米が美味しければ、米が美味しいなと思いながら、そこに満足しながら食べていられたのだろうし、吉野家の米が美味しかったなら、毎回つゆ切りで頼めば、味がきつさもほとんど感じずに、吉野家ならではのボリュームのある味に心底満足できていたんじゃないかとも思う。

それはそんなにも難しいことだったんだろうかと思う。

松屋のような米でなくても、かなり方向性の違う牛丼太郎の米だって、俺はそれで美味しく牛丼を食べていたのだ。

けれど、方向性は違っていても、牛丼太郎の米も、ふっくらはしていたし、風味もしっかりしていたし、口の中でぐずぐずすることもなかった。

吉野家にしてもてんやにしてもそうなのだろうけれど、俺はぐずっとした感じのある米に対しての嫌悪感が強いのかもしれない。

そういう意味では、牛丼太郎の米を好ましく思っていたのは、それとは真逆な感じに外国産米っぽい食感や風味があったことが、かなり大きな要因だったのかもしれない。

その頃の牛丼太郎の米は、まったくねとねとしなくて、ふっくら炊かれているのだけれど、つゆと合わさるとさらっとした感じでかきこめるような米だった。

もちろん、それは長粒種の外国産米的なさらさら感であって、吉野家が想定する、日本の牛丼のイメージの範囲内でのたれ通りがいい米というのとはまったく別のものなのだろう。

とはいえ、むしろ俺からすると、少しぱさつくくらいにぱらっと炊けている米が汁を吸ってもさらさらしているほうが、張りを感じないくらいにやわらかくて、ねとねとはしないけれど、汁を吸ってぶよっとしてくるような米より、「たれ通りがいい」という言葉がイメージさせるものにはしっくりくるように思ってしまう。

香りの好みはあるにしても、つゆを合わせた食感としては、丼もののご飯のあり方として、長粒種を混ぜた米を使うというのは一つの効果的なやり方なのかもしれない。

けれど、外国産米ということだと、吉野家にしたって、外国産米を使ってきた店だったのだ。

今はまた外国産米とブレンドした米を使っていて、けれど、店舗によっては国産米100%だったりもするという、松屋と同じような体制でやっているようだけれど、吉野家にしても、外国産米をブレンドして使っていたのを国産米のみに切り替えたり、そこからまた外国産米を使うようになったりと、外国産米の取り扱いについていったりきたりしてきているのが続いているらしい。

「多い時で米国産米を1割ほど国産米にブレンドして使用していた」(前出・ジャーナリスト)という。直近でブレンドが始まったのは2017年の春から。かつても2012年~2014年に使用していた期間があった。

https://www.news-postseven.com/archives/20220704_1770231.html?DETAIL

吉野家の場合は、アメリカ産の米では有名な中粒種の「カルローズ」を使っていたようだけれど、2020年頃まではカルローズが1キロあたり100円台前半で国産米が300円弱とコスト面で輸入米の使用にメリットがあったらしい。

けれど、それが吉野家が外国産米の使用を取りやめた2021年から2022年にかけて、カルローズが2021年9月240円、2022年3月222円、国産米は2022年5月212円と、価格的なメリットがなくなってしまったということだった。

カルローズは日本米とは風味的に違いがけっこう大きい気がするけれど、混ぜる量が一割くらいだったから、それほど感じなかったのだろう。

炊きあがりにしても、水分多めに炊く吉野家だと、日本米と同じ感覚で炊くと硬くなりがちなカルローズでも問題なく馴染んだというのはあるのかもしれない。

けれど、単純に美味しい外国産の短粒種でもなく、あえて別物としての美味しさをしっかりと持ってこれる長粒種でもなく、値段が安いからと中粒種のカルローズというのが吉野家っぽいのかもしれないとは思う。

きっと、松屋にしても、カルローズ米が使えるか検討したのだろうけれど、松屋の米の炊き具合だと、その米の風味をしっかり感じられるし、カルローズは混ぜるのには合わないと判断されたんだろうなと思う。

松屋はオーストラリア産の米をブレンドしているようだけれど、オーストラリアではほとんどが短粒種で、少し長粒種もやっているという感じのようだし、単純に日本米と混ぜて違和感のないの短粒種を確保してブレンドしているのだろう。

外国産米へのアプローチなんかでも、松屋と吉野家はかなり考え方が違っているのだろうし、それはやっぱり、松屋という店が、米に関して、吉野家とはまったく立場の違う店だからなのだろう。

牛丼屋が他のメニューも出しているというわけではなく、いろんなメニューで米を食べるための店なのだし、そういう店にふさわしい米をたべさせてくれていたのだ。

米を食べるための店である松屋の米の美味しさと、牛丼屋である吉野家の米単体での微妙さというのは、吉野家が朝定食をやるようになったり、カレーとか定食をやるようになってからもずっと続いてきたということなのだろう。

なか卯でのアルバイトによって牛丼を好きになって以降の俺が、吉野家に馴染めずに、なんとなく牛丼太郎を好んだり、牛丼太郎が身近ではなくなってからも、松屋にばかり行っていたのは、そういうところも大きかったのだ。

そして、だからこそ、しばらく前に、久しぶりに松屋で牛めしを食べたら、米に張りがなくて、香りもあまり感じられなくて、味や風味の薄い米がねっとりと炊かれているような感じになっていることに、びっくりしたし、がっかりしたのだ。

もちろん、どういう炊き加減のどんな味わいの米を美味しいご飯だと思うのかというのは、俺の好みの問題でしかないのだろうとは思う。

そんなことをこんなにぐだぐだ書いてどうしたいんだろうなとは思う。

けれど、俺の場合、米に対しての好みとか、米自体を美味しく食べることが食事を楽しむことの中心になっているということが、自分の食事人生をかなり強力に方向づけてきたように感じる。

俺が吉野家の牛丼のように味をつけすぎた感じになっているものになんだかなと思うのだって、米を米として美味しく味わいたい場合は、ご飯が進みすぎるくらいに味が強いと、その味の余韻が口に残っていることで、米の風味や味の広がりを感じにくくなってしまうからなのだろう。

たまに外出先で中途半端な時間にお腹が空いてちょっと食べるときに、コンビニでおにぎりを買おうとして、赤飯のおにぎりを買うのも、味のキツさに邪魔されずに米の風味に一番浸っていられるのが赤飯のように思っているからだったりする。

二十代の後半くらいからは、ノルタルジー消費として、東京では博多天神、神戸ではもっこすと第一旭でしか主体的にラーメンを食べようとしないのも、そもそも、ラーメンを食べられるくらいお腹が空いているのなら、中華屋に行くなり牛丼屋に行くなりするし、そこまでじゃなければ立ち食いそばに行っていたからなのだろう。

俺は夜に酒を飲みながら何かを食べるのだって好きだけれど、食事体験として爆発的に幸福感が強かった感触が残っているということだと、何よりもまず美林華飯店での数百回の昼飯になっている。

それにしたって、美林華飯店が美味しいというだけでなく、同じ美林華飯店で食べるにしても、夜に酒を飲みながらよりも、昼にご飯をお代わりしながら食べるほうが心地よかったからなのだろう。

そんなにまでも、俺にとってご飯を美味しく食べられるということは、食事することの中心にあったのだ。

(美林華飯店での昼飯についてはこっちで書いている)

白いご飯が好きじゃないという人が最近はけっこういるという話をしばらく前からたまに聞くけれど、俺だって美味しくない米の美味しくなさは知っているつもりだし、そう思うようになる人がいてもおかしくないとは思う。

けれど、家や学校給食で食べる米が不味くても、普通に日本に生きていれば、ちょくちょくとそれなりに美味しい米を食べる機会はあるはずだし、それなのに白いご飯を嫌っているというのは、人生としてやばいんじゃないかと思ってしまう。

もちろん、発達障害のある人には嗅覚や味覚に過敏や鈍麻があるケースが多いようだし、発達障害の人が若い人に増えているのだから、味覚的に非定型的な人が増えた結果として、白いご飯は味がしないとか、偏食で穀物の美味しさを中心にしたいろんな味わいの多様性を面白がりながら食べるような食べ方ができない人が増えているということなのだとは思っている。

それでも、米自体が美味しいことを喜びたくて食事をしているわけではないんだろうなという感じの人は、俺のまわりでもとてもたくさんいたし、女の人たちなんて、特別食べるのが好きな人たち以外は、かなり多くがそうなんじゃないかと思ってきた。

別にそういう人たちだって、自分の好きなものを好きだなと思いながら食べているのだし、それに対して何かネガティブなことを思っているわけではないのだ。

ただ、俺のように、米こそが大好きで、米を食べることが食事の中心にあるという人もそれなりにたくさんいるのだろうし、そういう人たちは、そういう感じ方をしてきたことで、人生を通していろんなものを食べている中で、いろいろと思ってきたことがあるのだと思う。

それは俺と似ていたり、似ているようでいて違っていたりするのだろう。

そういうような、感じ方が似ているからこその、感じ方の微妙な違いとか、似たようなことを感じていても思うことの違いというのに触れられるのは、俺にとっては楽しいことだし、俺が自分の感じ方についてくどくどと書いているのも、そういう相手にたまたま読んでもらえたときには、そこそこ楽しんでもらえるんじゃないかと思っているからなのだ。

もう吉野家とか松屋について思ってきたことはあらかた書いたような気はするけれど、俺にとって米が美味しいとはどういうことだったのかとか、米を美味しく食べられるためのおかずの味の濃さとか強さにどんなことを感じてきたのかとか、そのあたりのことをまた書いてみようかと思う。


(続き)


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