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吉野家の牛丼のワイン味は心地よいワイン味なのか

何年前くらい前だったか覚えていないけれど、吉野家の牛丼にはワインがたっぷりと入っているというのを何かで読んで、自分でもびっくりするほど腑に落ちたというか、たしかにそうだと思って積年のもやもやがとても気持ちよく解消したのを覚えている。

使っているのが白ワインというのも、吉野家の口の中でぬるんとした感じは、まさにぬるんとした系の安い白ワインの感触だと思ったし、感触だけではなく、味だってかなりワインが主張しているものだったのだなと思った。

のっぺりとした分厚い味がまったりと続いて、他の味や匂いの奥行きを感じにくくさせる感じとしても、安いワインののっぺり感が、そのまま吉野家の牛丼の風味の中心にあったのだ。

吉野家の牛丼というのは、初めて食べたときからかなり独特なものに感じられたし、同じ牛丼ではあっても、俺の親がたまに作ってくれた牛丼とも、うどん屋や食堂の牛丼ともかなり違っていたけれど、それは単純に、他の牛丼が和風の甘いの煮物とかすき焼き的な味の仕方をしているところで、吉野家だけはそこまで醤油が主張しないワインの風味が充満した味になっていたからだったのだろう。

牛丼なのに、そんなにまで、もろに感じるほどワインが入っていて、それが日本の牛丼のスタンダードのように思われているというのは、なんとなく不思議な感じがしなくもない。

けれど、ワインと牛肉というのは、昔からの洋食的な定番なのだろうし、むしろ日本の料理の歴史としては、牛肉をどう食べるのかということに関しては、最初から洋食の影響下にあったのだろうし、むしろ歴史ある吉野家がワイン煮的な美味しさを牛丼に取り込もうとしたというのは、いかにもな感じではあるのだろう。

(と思ったけれど、公式によると醤油と日本酒を主とする味付けからスタートして、試行錯誤する中で白ワインを使うようになったとのことらしい。)

俺は母親が作る作り置きの牛丼を、ちょっとまとまりにかけるし、甘さがだらだらと続くことでだんだん飽きてくる、牛肉だから美味しいけれど、そこまで特別美味しいわけではないものだと思っていた。

母親の作る牛丼というのは、顆粒だしと醤油をベースにして、料理酒も足しつつ、砂糖とかみりん風調味料を釣り合いが取れるくらい入れて、ご飯を食べるのにちょうどいいくらいの味の濃さや重さになるようにまとめたものだったのだろう。

それだと醤油味の甘い煮物と同じだし、どんぶりものになるくらいの味の濃さにしつつ、醤油辛い印象が消えるところまで甘みを足そうとしていると、どうしても俺からすると甘すぎるくらいの味になってしまっていたのだろう。

吉野家の場合、清酒系を少し入れるのではなく、ワインをたくさん入れることで、清酒より酸味やボリューム感のあるワインの味がしっかりと味わいの中心になってくれて、そうなると醤油をあまり入れなくてもすぐに味がまとまるし、醤油で辛くなってはいないから甘みもあまり足さないでよくて、それによって、甘さがだらんとたまらず、切れがよい印象になっていたのだろう。

そういう意味では、俺は吉野家のワイン感をよいものに感じている面もあるというか、味のまとまり方しては、最初に食べたときからとてもよくできたものだと感じていたのだ。

俺が家とかうどん屋とかどこかの食堂で牛丼を食べている中で、甘すぎると感じたり、あっさりしていすぎとか、薄く感じたりしていたのは、そういう牛丼というのが、すき焼きで食べる牛肉に似ているようでいて、牛肉を和風の甘辛の汁で煮ている、さほど煮詰まっていない煮物的な味わいの牛肉になっていて、牛肉の美味しさを満喫する食べ物としては、それほどぐっとこなかったからというのもあったのだろう。

そういう意味では、吉野家の牛丼というのは、普通に煮物的に調理したらもっとあっさりしてしまうしかないものを、もっと肉料理的になるようにしたものだったのだろう。

味がたっぷりとあって、詰まっている感じがすることで、和風の汁の多い煮物というよりは、もっと味の濃縮したタレ状のものにからまった肉と玉葱のように感じられて、だからこそ、すき焼きは大好きだし、肉じゃがも汁が少ないタイプのほうが好きだった子供として、牛丼とはこんなに美味しいものだったのかと、吉野家にがっつくことになったということなのだろう。

けれど、がっついて食べていたからといって、まだ子供だった俺は、吉野家の匂いや風味に、何かしらひっかかるものを感じていたのだ。

美味しかったけれど、肉の匂いではなく、なんだかわからない感じで少し臭いなとは思っていたし、何か口に残るような感触があるのも感じていたのだと思う。

吉野家の牛丼には生姜も入っているみたいで、それも何かで読むまでは認識していなかったけれど、たしかに生姜辛いジンジャーエールのような、分厚い風味として口の中に引っかかってくるような感触というのが、吉野家にはあるように思う。

ボリューム感ということだと、口の中で、ワインが下のほうでまったりする感じになっていて、その上側で風味をぎゅっとつけているのが生姜という感じで、ワインだけが存在感を持ちすぎてしまわないようにもしているのだろうし、吉野家の食べごたえの強さには、生姜もかなり貢献が大きいのだろう。

吉野家に対して、べったりした感じのする味だとか、ちょっとねとつく感じがあるとか、風味の奥行きが感じにくいとか、そういう印象を持っていたけれど、たっぷりのワインと生姜というのが、そう感じさせているものだったのだろう。

吉野家の味に興味を持って、何が入っているのだろうかと探るように食べていなかったし、俺にとっては、ワインとか生姜というのは、隠し味的なものとして感じられていたのだと思う。

そうしたときに、特にワインの風味があまりにもしっかりと残っているというのが、隠し味にしてはかなり主張が強くて、クセがあるようにも感じて、そこにひっかかっていたということなのかもしれない。

たしかに、子供の頃に初めて食べたときから、吉野家には、いつも食べているものとは違った食べ物を食べている感じがあったのだと思う。

当時はそれほど外食していなかったし、外食として刺激的な味になるように、きついくらいにまで味がついたものには慣れてなくて、びっくりしてしまったというのはあったのかもしれない。

小さい頃は、外食するとしたら、ニュータウンの駅のテナントに入っている店が多かったのだろうし、その中だと、安めのうどん屋や中華屋はあったけれど、B級っぽい美味しさの店というのはなかった。

マクドナルドに行ったとしても、ハンバーガーとかチーズバーガーはケチャップ味だし、まったくどぎつい味ではなかった。

多分、中学生とか高校生になって以降であれば、弁当も冷凍食品が多かったり、日常的に親が仕事帰りに買って帰った惣菜を食べたり、俺と弟だけでほか弁を買ってきて食べたりすることもけっこうあったし、外食的な味に口が慣れきっていただろうし、もうちょっと吉野家が口に馴染んだのだと思う。

けれど、俺が吉野家にひっかかっていたのは、旨味添加とか、味がつけられすぎていて奥行きが感じにくいとか、そういう外食としてのキツさに対してだけではなかったのだと思う。

そういう違和感以上に、小さい頃の俺も、ずいぶん間があいて、大人になってから吉野家を食べた俺も、ワインの風味がまったりと口の中でだらだらしていることに違和感を感じていた部分が大きかったんじゃないかと思う。

けれど、子供のときとか、大学生だったときのことを考えると、俺がワインの味に親しみがなかったから、ワインの風味を心地よく感じられなかったというのもあったのかもしれない。

俺の両親は記念日に二人でレストランに行くような人たちだったし、家でもまったくワインを飲まないわけではなかった。

かといって、80年代とか90年代の庶民だし、洋風のつまみをいくつか作って家でワインを飲んでいることはあっても、それはあくまで洋風という範囲だったように思う。

ワインビネガーも家になかったのだろうし、パスタを作るときなんかには、ワインを使っていたけれど、ワインをたっぷり使った煮物とか、ワインの香りを楽しむような料理は出たことがなかったのだと思う。

俺は中学生くらいからちょくちょく酒を飲んでいて、高校生の頃だと父親と近所のスタジアムにサッカーを見に行くときは缶チューハイを買っていって、観ながら飲んでいた感じだったし、親が家で酒を飲んでいるときも、ちょびちょびと味見をさせてもらっていたけれど、日本酒にしろ、ワインにしろ、少し舐めて、好きではないなと思って、その一口で終わりにしてばかりだったように思う。

それでも、ごくたまにレストランに家族で行ったときに、高めのワインを味見させてもらっていると、たまに美味しいのがあって、そういうときには、一口だけでなく、もう何口か飲ませてもらったりしていた。

なんとなく美味しい感じがするワインもあるというのは知っているけれど、普段使いのワインはわざわざ飲むほど美味しくは感じられないとか、それくらいの印象で俺は大人になったということなのだろう。

大学生になって飲み会に行くようになっても、ビールとかジントニックとかのカクテル類しか飲まなかったし、ワインを使った料理だけではなく、ワイン自体ということでも、俺はまだまだワインの美味しさみたいなものに馴染んでいなかったのだろうなと思う。

けれど、俺はワインのワインらしさみたいなものが好きじゃないわけではなかったのだと思う。

今でも日常的には飲まないけれど、自分はワインも好きだと思っている。

近年でも、近所にある酒屋が取り扱っている、亀ヶ森醸造所のワインなんかは好きでたまに買っている。

けれど、亀ヶ森醸造所のワインとかシードルというのは、安いワインやシードルの、のっぺりとしていつつ、なんとなく果実のうっすらエグいところがべたべたしてくる感じとは対極にあるような、果実の風味が変質しつつも輪郭がそのまま残っているような、くっきりと立体的な味わいだったりもする。

逆に、何年か前に、夜にひとりで飲むときにずっと焼酎だったから、たまには違うものを飲んでみようかと思って、安いワインをあれこれ飲んでみたことがあったけれど、最安値のワインだと、氷で割ってぐびぐび飲んでいる感じになって、別に美味しくないとは思わないけれど、どうしても飲んでいて口の中に続いている香りがそんなには気持ちよくなくて、だったら焼酎でいいなと思って、また焼酎に戻ってしまった。

そういう感じ方というのは、日本酒に対しても同じだった。

実家で生活していた頃、たまに父親が晩酌で日本酒を飲んでいるときに、少し味見させてもらっても、パック酒はべたべたして美味しいとは思えなかった。

けれど、30歳を過ぎてから、低精米のお酒や生原酒を飲むようになって、日本酒をとても好きになったし、それからは飲み屋では飲みたいものがあれば基本的に日本酒を頼むような感じになった。

けれど、日本酒を好きになったからといって、昔好きではないと感じていたパック酒みたいなものも美味しく感じるようになったというわけではなかった。

最近でも、美味しいという投稿を何度か見かけたから、地元魚崎の菊正宗のキクマサギンパックを試してみた。

ギンパック

値段からすれば美味しいとは思ったけれど、どうしても風味や香りにベタつきを感じなくはなくて、そういう意味で大衆酒的な範疇の味の仕方だなとは思って、日常の酒として、酔うために日本酒を飲む人にはいいのだろうけれど、俺のようなわざわざ飲みたい酒を探して飲む人からすると、飲むタイミングのない酒なのかなと思った。

結局は酒によるということなのだろうけれど、安い酒ののっぺりとして奥行きを感じにくくて、だらだらと単調な味が伸びていく感じというのが、俺は好きじゃなくて、それは直接飲むときだけじゃなくて、料理でもそういう感触というのは口の中に感じたくないということなのかもしれない。

吉野家の牛丼にしても、味の組み立てとしては、ワインを使っていることで、狙い通りにいいバランスを作り出せていると感じているのだけれど、そのまま口の中に広がる風味を感じていると、安いワインのなんだかなという感じがそのまま牛丼にうっすら付与されてしまっているように感じられてきて、牛丼にというより、その安いワインの感じに微妙な気持ちになっていたという感じだったのだろう。

ワインを使っているのが問題なのではなく、ワインの味をそのまま感じてしまうような使い方をするのだとしたときに、吉野家の使っているワインの味というのが、自分には心地よくないということなのだ。

たしかに、昔は自炊でスーパーで一番安い料理酒を使っていたけれど、安い料理酒には、風味の膨らみみたいなものがなくて、べたっと口の中にへばりつく感じがあった。

料理に使った場合、酒を入れたぶん味にボリュームは出るし、そのぶんしっかりした感じの味にはなるけれど、安い料理酒を入れたぶんだけ、その料理の感触は安い料理酒的なべったりとした風味に引っ張られてしまうことにはなる。

食べる人があまり味わわずに濃い味でご飯を流し込めればいいというのなら、安い料理酒を使っていても問題はないのだろうけれど、じっくりと味わうとなると、安い料理酒を使うことで、全体の風味の奥行きが感じ取りにくくて、何を食べているのかよくわからなくなる感じというのは、どうしても強まってしまうのだと思う。

それはワインを使う場合でも同じで、そのまま飲むのではなく、料理に使うからといって、入れれば入れるほど、そのワインの味は料理全体の味をそのワインの味の仕方に引っ張っていくのだろう。

そういうような、調味料の質がいまいちで、そのせいでそれが好きじゃないというのは、けっこうよくあることなのだろうと思う。

吉野家は牛丼チェーンで一番人気があるのだろうし、万人受けするということでは、吉野家のワイン味にそういうことを感じている人は少ないのかもしれない。

けれど、たとえば、酢の物が好きじゃない人というのは、お酢の味を直接感じるような酢の物を食べたときに、キツく感じて好きじゃないと思う場合が多いのだろうけれど、それは家庭で作ったり庶民的なお店で食べたりする場合は、酢が安価なものが使われていることが多くて、安価な酢の味のキツさを酢の物の食べにくさのように思っているからという場合が多いんじゃないかと思う。

俺の場合は完全にそうだった。

俺の育った家は、母親が酢の物を好まないからということで、あまり酢の物の出ない家だったけれど、たまに出る酢の物は、そんなに甘くしたり旨味を加えたりしていなかったからというのもあるのだろうけれど、匂いもきつく感じるし、味も角が立つというか、ぎすぎすしたものが感じられた。

酢飯を作るときも、ミツカンの米酢に味を足したものを米にかけて、うちわで扇ぐというのを手伝っていたことがあったけれど、むっとする匂いが不快で、食べるときは気にならないのに、なんとも嫌な匂いだなと思っていた。

もともとそういう印象だったし、外食の定食についているような酢の物もさほど美味しいと思うこともなかったから、俺はずっとお酢に親しみがないままで、友達と一緒に住み初めて自炊するようになっても、ミツカンの米酢とか穀物酢はずっと買わないままだったし、買うか迷ったことすらなかったのだと思う。

ずっとそんな感じで、30歳をいくつか過ぎて、日本酒を飲むようになってから、日本酒が飲めるような飲み屋で飲むことが増えたことで、美味しい酢の物を食べる機会が増えて、お酢への印象が変わっていった感じだったのだと思う。

そのうちに、家でも日本酒ばかり飲んでいるし、自分でも酢の物を作ってもいいなと思って、デパートで紹介されていた安くないお酢を買ってみて、お酢単体でこんなにも味が違うんだなと思って、そこからたまに酢の物を作るようになっていったのだ。

そうやって、味や香りのキツさやべったり感がないお酢に慣れたあとで、いろんなものを食べている中で、俺の中のお酢の美味しくなさのイメージというのは、お酢自体ではなく、安価なお酢にまとわりついてくる匂いや感触だったのだというのがわかってきたのだと思う。

(お酢といえば、イル・プルー・シュル・ラ・セーヌが輸入しているシェリビネガーとワインビネガーはめちゃくちゃ(高いけれど)美味しい。
(けれど、マイユのワインビネガーとヴェアのビネガーの違いは、タカラ料理のための清酒と大和川酒造店の蔵の素の違いより大きいので仕方なし))

会社の近くのおじいちゃんがやっている野菜中心のランチを食べられる店で、この店は全体に何を食べても美味しいけれど、酢の物はどうも口の中でぎすぎすするんだよなと思っていたら、ミツカンの穀物酢を使っているのが見えて、それでかと思ったりとか、実家に帰ったときに、ミツカンの酢で煮た煮物を食べて、この感じは火を入れても残るんだなと思ったりとか、スーパーの惣菜の南蛮漬け系がどうしても酢自体の風味がぎすぎすするなと感じたりとか、お酢はもっとすんなりと心地よく美味しいものなはずなのに、もったいないなと思ってきた。

俺の実家だって、スーパーで一番安いし、一番売れている、みんなが使っているお酢だからと、ミツカンの安いお酢を使っていなければ、俺は小さいときから酢の物とか、酢を使った料理をすんなり好きになれていたのだろうし、酢の物が大好きな今の俺からすると、それはなかなか残念なことだったなと思う。

とはいえ、俺の母親だって、戦後のまだ貧しい頃の生まれで、都市部の庶民として、大量生産された一番安いお酢を家でも食べていたのだろうし、それは今の基準からすれば、ミツカン以上にきつくてスッキリしない味のお酢だったのだろうし、お酢はあまり美味しくないと思って育った母親に、いいお酢を使ってくれていればよかったのにと思うのもおかしいことなのだろう。

みんな寿司は大好きだけれど、それはいろいろとお酢のキツさをマスクしてくれるような出汁とか甘みとか旨味の添加があるから大丈夫なだけで、お酢自体が好きな人は、少なくても俺の身の回りで考えても、かなり少数派だったのだと思う。

近年でも、カンタン酢とか、猛烈に甘くしてうま味調味料も添加したようなものが人気なようだけれど、本当にみんなお酢自体の味を感じたくないんだろうなと思う。

日本では、酢の味をしっかり感じるシンプルなヴィネグレットは好まれなくて、ごまドレッシングにしろ、フレンチドレッシングにしろ、ピエトロ的なドレッシングにしろ、こってりとした感じだったり、甘味や旨味がしっかり添加されていたりするものばかりが好まれている。

さっぱりさせる場合も、和風ドレッシングみたいに醤油味にしたりで、やっぱりお酢を直接は感じなくていいようにしているし、シンプルなヴィネグレットは完全に人を選ぶ味わいだということになっているのだろう。

そういう意味では、ミツカンなんかの大きな醸造会社が、企業努力によって、庶民でも安い値段でお酢を使えるようにしてくれたのはいいことだったのだろうけれど、あまり心地よくない風味がどうしても全面に出て鼻につくお酢が世の中の一般的なお酢ということになってしまったことで、世の中の多くの人がお酢自体を美味しいものだと思わなくなってしまったという面もあったのだろうなと思う。

それは安い日本酒とまるっきり同じ構造で、日本酒にしても、俺がずっとそうだったように、安い日本酒の味が日本酒の味だと思って、日本酒は美味しくないものだと思っている人がたくさんいるのだろう。

日本酒もお酢も、庶民的な店で普通に出てくるものや、スーパーで普通に手頃なものを買って試してみたときに味わうものが、そういう安いものに特有の、風味や匂いのキツさや、のっぺりした味が口の中でべとつく感じがあるのだから、食べることにこだわりのある家庭で育ったり、何かのきっかけで食べ物に興味を持つようにならないかぎり、そんなふうに思うようになるのは自然なことでしかないんだろうなと思う。

俺はワインも日本酒もお酢も、それ自体はとても美味しいものだとだんだん思うようになっていったし、安いものにしても、それはそれという感じで、それなりに味わえるようになっていった。

それでも、好きな店で、その店のおじいちゃんとしては、ミツカンの穀物酢のあの感じこそがお酢らしくていいと思っているのだろうとは思いつつも、やっぱり口の中に心地よくないものを感じて、どうしてなんだろうなと思ってしまうし、吉野家の牛丼にも、この味が吉野家の味と認知されているし、こうだからこそ愛されているのだとわかっていても、もうちょっと美味しくないワインの美味しくなさを感じにくいバランスにできなかったんだろうかとは思ってしまうのだ。

(おじいちゃんのお店。美味しいし楽しいし本当にいいお店だった。)

吉野家が大好きな人たちからすれば、俺が感じているようなことは、それも含めて全体として吉野家味として最高だろうに部分を切り出して反応するなと腹が立つようなことなんだろうなと思う。

けれど、特に牛丼を普段食べないような人だと、吉野家は美味しいけれどちょっと味がきついと思っている人はけっこういるのだろうし、吉野家はちょっと臭いと思っている人もけっこういるんじゃないかと思う。

俺はずっと牛丼をたくさん食べる生活をしてきたし、牛丼チェーン的な牛丼味が好きな人なのに、吉野家にしっくりきていないという、少し珍しいケースなのだろう。

けれど、なか卯でアルバイトしてなか卯の牛丼の美味しさを知ったり、牛丼太郎が自分の駅にある生活だったり、00年代に味が激変してからの松屋がかなり口に合ったりと、俺にとって、食べたい牛丼はずっと吉野家以外のものだったのだ。

18歳で上京して以降、一年で一度も食べなかった年もあったかもしれないにしろ、二年くらい食べなかったなんてことはなかったし、会社の最寄りの牛丼屋が吉野家のときは年に数回とか、そんなくらいには吉野家の牛丼を食べてきたのだと思う。

その間、味の好みもだんだん変わっていったけれど、吉野家で食べるたびに、なんかちょっとなんか何だよなと思い続けてきたのだ。

そして、それは吉野家のレシピに対してというより、吉野家の使っているワインに対して思っていたことだったとわかって、なるほどなと思ったのだ。

ただ、仮に吉野家がワインを変えて、ワインたっぷりならではの味のボリューム感は変わらずに、美味しくないワインの美味しくなさを感じない(プラス旨味も添加しすぎていない)牛丼を出すようになったとしても、吉野家が俺の一番好きな牛丼チェーンにはならないのだと思う。

それは吉野家の米が柔らかすぎるからなのだけれど、それについてはまた今度書ければと思う。


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