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牛丼太郎ばかり食べていたし、吉野家より牛丼太郎のほうが美味しいまであった

大学一年生の頃に、なか卯でアルバイトを始めたのはたまたまだった。

それまでは、学生部に貼り出されていた単発のアルバイトをしたり、学生寮の先輩が紹介してくれた、何のために何をやらされているのかわからない作業をやるアルバイトをしたりしていた。

今考えてみても、何をやっていたのかわからないのだけれど、延々と地図にシールを貼っていったり、別の資料と照らし合わせて、指定の区画をマーカーで囲ったりし続けるだけの仕事だった。

勤務先の事務所は製図とか出版系の会社ではなさそうだったから、事務所内の空いているスペースを使って、単純作業を請け負って、学生にやらせるみたいなことをやっていたのだろう。

そのバイトは、時給も悪くなかったし、人生で初めて継続的に通う仕事としては、ちょろすぎるし、何のためにやっているのかもわからないという意味でも不適切だったのかもしれないけれど、音楽を聞きながらできたし、知らないおじさんに指示を受けて決まった作業をするというのも初めての体験で、なんとなく楽しく働いていた気がする。

その次は、それも学生寮の先輩の代役みたいな感じで、土曜日の単発を二回か三回くらいだけだったと思うけれど、NHKのサタデースポーツ・サンデースポーツの雑用みたいなアルバイトをやった。

弁当を控室に持っていったり、ゲラをコピーしたのをスタジオに持っていったりとか、本当にただの雑用を、その場で指示をもらって、言われたことをやるだけの感じで、日によっては速報のニュースを慌ただしくねじ込んだりしてバタバタするのかもしれないけれど、俺が行ったときはのんびり指示待ちしているだけのちょろいバイトだった。

1999年のことなので、スタジオには有働由美子がいて、それが俺が肉眼で初めて見たテレビに出ている有名人だったのだと思うけれど、有働アナだなと思っただけで特に感慨はなかった。

(その後、なか卯でアルバイトしているときも、19(ジューク)の片方が来ていたらしく、社員の人が教えてくれたけれど、19と言われても326の絵しか思い浮かばなくてその男のどこが19なのかまったくわからなかった。)

大学一年生の前期は、そうやって、学生部に張り出されていた単発の肉体労働をした以外は、学生寮の先輩に紹介してもらったアルバイトをしていたけれど、アルバイトなるものを体験してみるというのが目的で、ほとんどまともには稼いでいなかった。

夏休みはサタデースポーツ・サンデースポーツを何度かやった以外はバイトはせずに、サークル活動や帰省以外はぼんやりと過ごしたのだと思う。

(その頃に暇すぎてタバコを吸うようになって人生が変わった話はこちら)

神戸から早めに東京に戻って、夏休みの終わり頃に、そろそろ後期も始まるし、アルバイトを決めないとと思ったのだと思う。

先輩の紹介だと変わったアルバイトになりそうだし、もうちょっと普通のアルバイトでいいかと思って、アルバイト情報誌を買ってきて、学生寮から歩いていける範囲でよさそうなものがないか探して、そうしたら、麹町のなか卯が募集していて、友達が親子丼が美味しいと言っていたところかと思って、牛丼屋でもいいのかもなと思ったのだと思う。

けれど、学生寮からの距離でいうと、四ツ谷の吉野家のほうが近かったし、そっちだって、店にはアルバイト募集の紙が張り出されていたのかもしれない。

すぐ歩いていけたし、吉野家も募集しているのなら、時給も見比べて決めようとか、そういうことを思ってもいいはずだったけれど、俺はそういうことは思いつかずに、漫然となか卯に電話して、なか卯に面接に行って、その週末から働くことになった。

そうやってなか卯でバイトを始めて、親子丼も美味しかったけれど、それ以上に牛丼がしみじみと美味しくて、頻繁に食べるようになって、自分の中で牛丼というのがとても美味しい食べ物ということになっていった。

もしも、吉野家でアルバイト募集しているか覗きにいって、吉野家でバイトしていたとしても、バイトに入るたびに牛丼にがっついていたのだとは思うけれど、連続してバイトに入っていると、なんとなく飽きてきたなと感じてきたのかもしれないし、どれくらい牛丼を好きになっていたのかも、また違っていたのかもしれない。

そんなふうに、俺はなか卯で牛丼を好きになっていったのだけれど、夜勤は学期中にはしんどすぎたからやめて、それから半年後くらいに、俺は学生寮を出て、中野と高円寺と東高円寺の三角形の真ん中くらいの位置にある一軒家を友達と借りて住み始めた。

この細い角地に無理やり立てた古くてボロい一軒家だったけれど、自分たちが退去したあとは、すぐに取り壊されて、家屋を立て直せる幅がなかったのか、駐車場になっていた。

電車的には、丸ノ内線を使うより、JR中央線の中野駅と高円寺駅のどちらかから四ツ谷駅にいくほうが快適だったから、高円寺と四ツ谷で通学定期を買って生活していたけれど、高円寺駅と中野駅というのは、どちらの駅にも吉野家と松屋だけではなく、牛丼太郎があった。

その当時、貧乏でお腹が空いた米が食べたい男がその辺りに住んでいると、牛丼太郎にお世話になる場合が多かったのだと思う。

俺も自炊しない時期は平均して週に三回くらいとか、ひどいときは週に五回とか食べていたように思う。

その頃は、牛丼屋やハンバーガーが安くなっていた時期だったから、登校前に昼飯で牛丼太郎で牛丼大盛りを食べて、サークルが終わって夜に帰宅途中に牛丼太郎の並と、マクドナルドのハンバーガー二つとか、そんな食べ方を週に何度かしていることもあった。

マクドナルドがハンバーガーを65円で販売していたのは2000年2月から2002年2月のことらしい。

吉野家が牛丼並280円になるのが2001年8月からで、松屋やらんぷ亭も値下げしていくのに対抗する形で、牛丼太郎も250円、200円と値段を下げていったらしい。

もともと牛丼太郎は他の牛丼チェーンが並盛400円のときに350円だったりで、安売り路線ではあったようだけれど、250円が200円になったときは、さすがにやり過ぎだろうとびっくりした気がする。

とはいえ、吉野家とか松屋が280円とか290円で充分安く食べられたのだし、その頃は、いろんな街で、まぁいいかと吉野家や松屋に入っていたのだし、地元の駅での普段の生活では牛丼太郎でばかり食べていたのは、安いからというだけではなく、むしろ牛丼太郎のほうが食べたかったからなのだと思う。

中野の牛丼太郎のすぐ近くには吉野家があったけれど、中野の吉野家は二、三回行ったかどうかだったんじゃないかと思う。

牛丼太郎の何がそんなによかったのだろうと思う。

中野店も狭かったけれど、高円寺店は立ち食いだったんじゃないかと思う。

狭いだけじゃなくて、店内の雰囲気だって、多くの人は好感を持たないものだったんじゃないかと思う。

その頃には、もう吉野家とか松屋とかの大手牛丼チェーンは、女子供がひとりで入るのがはばかられるような雰囲気ではなくなっていた。

とはいえ、それは牛丼屋のイメージを変えようと頑張っている最中という感じで、大学によって違いは大きかっただろうけれど、俺の大学の同級生の女の人たちだと、卒業する時点でも、牛丼屋で牛丼を食べたことがない人が過半数とか三分の二とかという感じだったのだと思う。

けれど、そうやって大手チェーンが明るくて清潔で親しみやすい雰囲気の店を作っている中で、牛丼太郎はどうしたって女の人がひとりで入るには無理がある店構えで異様な雰囲気を放っていた。

はっきりとB級な感じの赤い看板や、安さが売りだから、その安さが少しでも遠くからでもわかるように、デカデカと安さを主張するラミネートポスター的なものが張りまくられていたりして、街で一番安い、外国からの輸入品がいやに多い、ちょっと怪しく感じてしまうタイプの肉屋とか八百屋と似たようなセンスとか雰囲気を感じさせていた。

そして、近付いて店内がちらっと見えてくると、そういう店で抵抗なく食べられるような、しょぼかったり、やばい感じに歳を取っていたり、ガラが悪そうだったり、大学生だったりする男たちだけが立ち食いしていて、カウンターの向こうにいる店員にしても、どうにも(他の店ではなく太郎でバイトしている)ワケアリ感を発しているのだ。

だから、貧乏暮らしを積極的に楽しんでいるタイプの人でもなければ、多くの人が、わざわざ牛丼太郎に行こうとしないのは、当然のことだったのだろうなと思う。

中野店は細長い店で、店の横の細い道をサンモール商店街へと通り抜けられた

かといって、別にそこまで不潔だったり、飲食店として問題があったりしたわけではなかったのだ。

俺ははっきりとアンチ潔癖ではあるし、通常使用の範囲の汚れや散らかりにはかなり寛容ではあるのだろうけれど、そういう俺からして、牛丼太郎の中野店と高円寺店は、店内を特別不潔だと感じたことはなかったけれど、どこもかしこもいやにねとねとする古いラーメン屋とか古い喫茶店を除けば、当時行くことのあった店の中では一番清潔感に欠けた店ではあったのだと思う。

ただ、牛丼太郎の場合は、明らかにそうなるだろうなという感じだったから、それを不快に感じることはなかった。

人手が足りていなくて、店員はずっと動き続けているし、店内も狭くて、客が切れないうちはカウンター越しにしか拭き掃除もできないのもあって、客がはけるごとの清掃が行き届かないのは、目の前で見ていても、仕方のないことに思えた。

こぼれた水とか牛丼の汁がついていたり、紅生姜がこぼれたものがそのままになっていたりというのは、むしろいつでもそんな感じだったといえるくらいだったのだと思う。

そして、味ということでも、牛丼太郎というのは、そういう店構えとか店内の雰囲気のとおりの味だったように思う。

吉野家はかなりしっかりと吉野家味だから、別物として扱うとして、牛丼の基本形みたいなものを、自分の家で出されていたものや、いろんなところの食堂やうどんそば屋なんかで出される牛丼たちから思い浮かべたときに、牛丼太郎もそれなりに基本形からはずれた、独特な牛丼ではあったのだと思う。

昔の記憶ではあるけれど、ちょっと甘みが強いかなという感じはしつつ、味つけの濃度が強くないというか、甘さ以外には複雑な風味がないぶん、肉と玉葱の匂いをかなりもろに感じて、それをぎりぎり物足りなくないくらいのしょっぱさでぎりぎり臭さには感じないくらいにまとめてあったのだと思う。

ただ、俺にとってはギリギリ肉臭かったり玉ねぎ臭さが鼻につかないバランスになっていたけれど、あまり運動しない女の人とか、匂いの強い肉とか魚は苦手だというような人からすると、ちょっと肉も玉ねぎも匂いがし過ぎだと感じられたのかもしれない。

男っぽくて、貧乏っぽくて、肉体労働者向けでもあるような、そういう雰囲気の味わいとも言えたのだろうし、そういう意味でも店構えや雰囲気のとおりの味だったのだと思う。

高円寺店が一番たくさん行ったのだと思う

俺が毎日のように牛丼太郎で食べていた頃、同じ高円寺エリアに住んでいるやつがサークルも同じで、そいつとはよく一緒に牛丼太郎で食べていたのだけれど、学内施設だと使える時間が少ないから、俺の家でサークルの人たちで集まったりもしていて、そういうときは、俺の家に来る前に何か食べておこうということで、みんなで牛丼太郎に行ったりもしていた。

みんなで太郎に行ったのは、そんなに回数は多くなくて、それは単純に、いつも食べてない人たちは、あまり牛丼太郎にいい反応をしなかったからだった。

みんなで牛丼太郎で食べたあと「安いけど、やっぱり吉野家のほうが美味しいな」というような話になったのだけれど、いかにも普通なことを言うなぁと思いながら、俺は牛丼太郎のほうがむしろ好きだと言って、もう一人の一緒に太郎に行っていたやつも「俺も同じ値段でも太郎のほうがむしろいいかもしれん」と言っていた。

牛丼太郎に違和感があるのはわかるし、吉野家がはっきりとしっかりおいしいというのもわかっているのだ。

そもそもみたいなところで、その頃の牛丼太郎は、米も独特で、あまりもちもちしていなかった。

太郎が美味しくなかった人たちにとっては、米がぼそぼそしていると感じられたのかもしれない。

俺からすると、あの頃の太郎の米というのは、香りが悪かったわけでもなかったし、むしろ吉野家は柔らかすぎだとずっと思っていた俺からすると、むしろ印象がいいものですらあった。

太郎は牛丼のつゆも粘度が低かったのもあって、少しつゆが多いと、なんとなく最後はさらさら食べるような感じになっていた。

今から思うと、あれは外国産米とか、外国産米がブレンドされた米だったんじゃないかと思ったりもする。

牛丼だと、粘らなくて、口に重たくもなくて、さらさらと食べられていい感じというだけだったけれど、納豆丼を食べたときに、けっこう匂いのする米のように感じたこともあった気がするし、その可能性は結構あるんじゃないかと思う。

俺は1993年の米騒動のときにタイ米を何度か食べて、母親がチャーハンとか美味しく調理してくれたのもあって、タイ米のことは最初から好きだった。

タイ米だけで炊いた白ご飯も、普段の米とは違うけれど、これはこれで美味しいとすんなり受け入れられたし、その後中国に旅行に行ったときも、現地の米を美味しくないなんて思わなかったし、日本米的なもちもちでねとねとな感じに俺はそこまで執着がないのだろう。

タイ米に関してはその後もずっと大好きで、いまだにたまに5キロとかで買って、タイ米だけで炊いたり、日本米と混ぜて炊いたりして食べたりしている。

もしかすると、そういう米の風味や食感への元々の好みとして、牛丼太郎はむしろわざわざ食べたい感じがする美味しいものに感じられたところもあったのかもしれない。

米以外の要素だと、太郎の牛肉は、いかにも牛丼の牛肉という感じだったけれど、吉野家のようにつゆと肉に一体感がありすぎず、つゆの味がしみつつも、つゆで似た牛肉自体の味がけっこうそのまま感じられるところもあった。

脂の部分がたくさん入っていると、けっこう脂の美味しさも感じられたし、俺は基本的に生卵はいらない派だったけれど、牛丼太郎は卵をたまに落としていたように思う。

牛丼に卵は定番なのだろうけれど、俺はもともと生卵の匂いがそんなに心地よくなくて、目玉焼きでも、黄身を崩すと一気に流れて広がってしまうくらいの半熟だと生卵の匂いが鼻について、ほとんど黄身が流れ出ないくらいの半熟にしてほしいなと思っている子供だったけれど、そういう生卵の匂いへの心地よくなさは大人になってもずっと続いていた。

月見うどんとかカレーに生卵というのも、ほとんど頼んでことがなかったけれど、たまに頼んでみても、やっぱり卵の匂いが浮いてきて、直接生卵の匂いに触れる感じになって心地よくなかった。

かといって、すき焼きの生卵が嫌だったことがなくて、牛丼はすき焼きみたいなものだから、まだすんなり合わせられる感じはあったけれど、それでも卵の匂いだけ浮いている感じに思うことが多かったから、だんだんと牛丼でも基本的に生卵はいらないという感じ方になっていったのだと思う。

牛丼太郎の場合は、なんとなく卵があってもいい気がしがちだったのいうのは、他の牛丼チェーン以上に、卵があっても卵の匂いと釣り合いが取れるくらい肉とか玉ねぎの匂いを感じられていたということなのだろう。

思えば、太郎は玉ねぎの感触もなかなか独特で、玉ねぎがシャクシャクしている感じがあった気がする。

玉ねぎだけでなく、全体に火の通しが少なめで、牛丼として色も薄かったように思う。

当時の印象に近く感じる、色の薄い近年の牛丼太郎の牛丼

実際、牛丼太郎こそ、牛丼チェーンの中で、なんとなく薄さを感じさせる店だったんじゃないかと思う。

他のチェーンのほうが、外食的なまとまりとか旨味による重さがしっかりとあった。

牛丼太郎はあまくてちょっとそっけない感じで、あくが浮いていることが多かったり、玉ねぎが茶色いとろとろじゃなくて、白っぽいシャクシャクだったりとか、吉野家の牛丼を食べるつもりの口で食べると、それなりにしっかり違和感があるものだったのだと思う。

俺と一緒によく牛丼太郎を食べて、俺も太郎のほうがいいかもしれないと言っていたやつは、鹿児島出身で、母親がずっと料理を作ってくれて、その料理が美味しい家だった。

そいつの実家に遊びに行ったときに家でご飯を食べさせてもらって、醤油も甘かったし、全体に甘かったけれど、味のキツさはなくて、何を食べてもとても美味しかった。

その鹿児島のやつからすると、甘さが前に出ている味付けは食べ慣れたものだし、そのうえで、味がつけられすぎていなくて、食べているものの味がよくわかる手作りの家庭料理の味付けに慣れていると、吉野家のほうがまとまっていてはっきりと美味しいとしても、牛丼太郎のほうが口が疲れないし、肉の風味もくっきり感じるし、全体に軽やかで、むしろ太郎のほうがいいなと思うのは自然なことだったのかもしれない。

けれど、家の料理ということでは、俺は実家の夏休みにたまに置いてあった牛丼が、甘みが勝ちすぎていて、美味しく食べていたとは言え、なんとなくバランスがよくないような、甘かったなという感想になる牛丼に思えていた。

牛丼太郎にしても、むしろ甘さが浮いていた部分はあったのだろうけれど、それはどうして大丈夫だったのだろう。

けれど、家の牛丼は、きっとみりん風調味料とかそういう甘さが強かったのだろう。

そのせいで、密度が高い甘さが前に出ている感じがしていて、それに比べれば牛丼太郎は、むしろ全体にはぼやけた感じがする中でじんわり甘い感じだったのだろうし、それなら俺にもすんなりと美味しく感じられたということなのだろう。

いろいろ思い出してみて、きっと俺が牛丼太郎を好ましく思えていたというのが、吉野家をそんなに好ましく思っていなかったということの、答え合わせのようになっているのだろうなと思う。

吉野家は俺にとっては少しやりすぎていて、牛丼太郎のようなもっと粗っぽい感じのそっけない味付けのほうが、むしろしんどくないという意味で好ましかったということなのだろう。

太郎だってうま味調味料は添加していたのだろうけれど、それは吉野家よりは少なかったのだろう。

単純に、吉野家は味をつけすぎだったし、味をつけすぎているように感じさせてしまうようなもので味をつけすぎていたのだと思う。

吉野家の何がそう感じさせていたのかということについては、また今度書ければと思う。


(続き)


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