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牛丼チェーンで一番美味しかったのはあの頃のなか卯

大学生になってから、俺はだんだんと牛丼まみれの生活になっていった。

ただ、それは大学生になってすぐのことではなく、二年生になって友達と二人で一軒家を借りて住み始めてからのことだった。

俺は四ツ谷の大学に入学して、学校の敷地内にある学生寮で生活をし始めたのだけれど、その寮には寮食堂があったから、基本は寮食堂の食事を食べていた。

(住民票も移動させたから、俺は一時期千代田区民だったということになるけれど、成人式も千代田区になってしまって、他の寮生には千代田区の成人式に行っていた人もいたけれど、俺は誰も知らないしなと思って無視して、成人式というものを体験できないままになってしまった)

牛丼チェーンということだと、四ツ谷には吉野家があったけれど、日曜日以外は寮食堂で食べていたし、日曜日も寮の他のやつに飯に行こうと誘われていて、そういうときに吉野家が選ばれることもなかったから、しばらく吉野家に行く機会はなかった。

まだ寮に入ってそれほど経っていない頃だったと思うけれど、学生寮で夜に集会があって、それは数時間に及ぶ長い集会だったのだけれど、夜食ということで、持ち帰りの吉野家が配られてみんなで食べた。

きっとそれが俺にとって十年以上ぶりの吉野家だったんじゃないかと思う。

持ち帰りの牛丼ではあったけれど、百人分以上を予約して、時間がかかるというので待たされたりしつつ、先輩何人かで持って帰ってきてくれたものだったし、まだしっかり温かくて、米がつゆでふやけた感じになっていたわけではなかったけれど、久しぶりに食べた吉野家は、なんとなく記憶にあったよりもいまいちに感じられた。

大量注文があって、一気にたくさん作っているときの牛丼だったから、タレが煮詰まる度合いが少なくて、玉ねぎも肉も火の入りが最低限になっていたりとか、店で食べた場合の平均的な味よりも、送られてくる吉野家のタレの味そのままに近い味で、深みが出ていなかったり、煮詰まり不足で塩気が弱かったりしていたのかもしれない。

大人数で牛丼を食べているのはなんだか楽しかった気がする

そのときの味がどんなだったのかは覚えていなくて、けれど、なんとなくこんなものかと思ったのは確かで、だから、学生寮から最寄りの牛丼屋は吉野家だったけれど、寮食堂がやっていない日曜日も、吉野家に行こうとすることがなかったのだと思う。

その後、牛丼屋でバイトするようになったからとはいえ、結局寮を出るまでの一年半で一回くらいしか四ツ谷の吉野家には入らなかったのだと思うし、四ツ谷の大学にいた四年間でも、もう一回くらい行ったかもしれないというくらいだったのだと思う。

大学生になって牛丼ばかり食べるようになったとはいえ、それは大学の最寄りの吉野家ことではなかったのだ。

かといって、それは松屋でもなかった。

大学が始まってけっこうすぐに、いつも一緒にいるグループができて、そのグループで喋っているときに、長野出身でひとり暮らししている男が、自炊はしていなくてよく松屋で食べていると言っていて、松屋は店を見たことがあるけれど行ったことはないなと思って、そいつは吉野家より美味しいと言っていたから、行ってみたいなと思った。

きっと、それから少しして、休日に新宿とかに出かけたときなんかに、俺は松屋に入ってみたのだと思う。

けれど、当時の松屋は、甘みも醤油風味も弱めで、甘辛味でまとまっていなくて、肉の脂をぬるっと感じて、肉臭さも強いというバランスの牛丼で、本当にこれが美味しいと思って提供しているんだろうかと驚いたし、これに比べると学生寮で食べた吉野家のほうがだいぶん美味しいと思った。

後日、松屋のほうが美味しいと言っていたやつに、松屋は肉臭くないかと聞いたら、「あぁ、だからいんじゃね、わかんねーけど」みたいなことを言われて、そういうやつもいるのかと、不思議な気持ちになったのを覚えている。

吉野家も松屋も、その時点ではそんな印象だったし、すき家は店の看板を目にしたことがあっただけで、学生寮の近くにも、そのあとに住んだ中野高円寺エリアにもなかったから、初めて行ったのは、渋谷でバイトをしていた大学四年生になってからが初めてだった。

ということで、俺が最初に好きになったのはなか卯の牛丼で、それは大学一年の後期から、なか卯でバイトを始めてからのことだった。

バイトしていた麹町店はいつのまにかなくなっていた

俺がバイトしていたのは1999年から2000年にかけてで、まだモスバーガーのモスフードサービスが資本業務提携していた頃だった。

なか卯のバイトでは、まかないとして、休憩のときに何でも半額で食べていいということになっていた。

俺はなか卯という店は東京に出るまで知らなくて、麹町方向になか卯があるという話になったときに、親子丼が美味しいよねというようなことを友達が話していたから、食べてみたいなと思っていた。

今となっては、本当に意識が低かったなと思うけれど、俺はなか卯で一度も食べたことがない状態で、なか卯の夜勤のバイトを始めた。

当時は何でもとりあえずインターネットで検索する時代でもなかったし、なか卯について何も知らなくて、友達との会話でなか卯は親子丼だというのを聞いた印象だけでアルバイトを始めたのだ。

最初のバイトの日は配膳と皿洗いと掃除がメインだったと思うけれど、お客さんに運んでいた、作りたての親子丼はたしかに美味しそうで、一緒に入っていた社員のおじさんにのまかないで何を食べるかと聞かれて、親子丼の大盛りを作ってもらった。

ひとくち食べて、こってり甘い感じが美味しくて、なるほどなと思っていたのだと思う。

今はどうなのか知らないけれど、その頃のなか卯は、米も安い店の米みたいな美味しくなさは感じない米単体でも満足行く米だったように思う。

そのご飯のうえに、作りたてのちょうどいい火加減のとろっとした卵の親子丼で、ひとくち食べて、これは美味しいなと思って、鶏肉も鶏肉感がなくはなくて、甘いだけではない濃いめの味もご飯が進む感じで、がつがつ食べた。

次のバイトのときも、その次もと、親子丼を三回くらい続けていたのだけれど、他のアルバイトのお兄さんが、「また親子丼すか。牛丼うまいすよ。多分なか卯が一番牛丼うまいんじゃないすかね」と言ってきて、そうなのかと思って、その次のバイトで食べてみたら、たしかに吉野家より美味しくて、そこからは、いろんなメニューを試しつつも、基本は牛丼という感じになっていった。

それほど長くバイトしなかったけれど、夜中のバイトだったから、うどんも親子丼も牛丼も米炊きもやりながら、皿洗いと清掃と朝の準備と朝のラッシュの接客をする感じだったし、特にどのメニューに思い入れが強かったわけでもなかった。

調理するうえで気にかけないといけないことは、親子丼やうどんに比べれば、牛丼のほうがはるかに多かったし、そういう意味では、牛丼のほうが思い入れも強かったのかもしれない。

牛丼は大量に作りつつ、夜間のまばらな客相手だから、作ったものの状態を長時間維持しないといけなかったりで、火加減とかも気を使わないといけなかったし、盛り付けるときも、牛丼は適度にタレを切ったうえでご飯に乗せるのに慣れも必要だった。

それに比べると、親子丼は一回一回作るし、計量済みの鶏肉を専用レードルすり切り一杯のタレで強火で似て、専用レードルすり切り一杯の卵でとじるから、火加減の問題もなく、親子鍋の中身全部をご飯の乗せるだけで、うどんとか牛丼をよそったり、他の作業と並行すると忙しないだけで、難しさはなかった。

けれど、そもそものところで、ちょっと俺には甘みが強すぎたのもあってか、親子丼は何度か食べたら飽きてしまったというのもあった。

とはいえ、親子丼の場合、鶏肉が余ってロスになると、バイトが足らなくて夜勤に入っていた社員の人が、まかないで親子丼食べるなら、この鶏肉なら、いくらでも入れていいよと言ってくれて、そういうときは、鶏肉だらけのとんでもない量の親子丼を作って食べたりしていた。

その後肉2倍の特盛親子丼というのが出ていたようだけれど、肉の量はこんなものではなかった

他には、いかにもな感じの味だったけれど、カレーうどんもけっこう美味しかったから、カレーうどんとご飯という組み合わせのまかないにすることも何度かあったように思う。

けれど、一番半額で食べさせてもらったのは、けっこう突出して牛丼だったのだと思う。

牛丼と一番安いはいからうどんという組み合わせにしたり、牛丼を大盛りとか特盛にして食べたりとか、春休み中は週に五日とか入っていて、毎日のように食べていたなと思う。

なか卯の牛丼は、その後、味が変わっていったけれど、その頃は、甘みで全体をまとめる感じではなく、吉野家のように旨味的な味わいをたっぷりと作ろうとしているわけでもなく、無理をしない感じに味をまとめていた。

醤油的というのが中心的な印象で、それに寄り添うくらいで適度に旨味を強めて、風味の膨らみというところでは、牛肉と玉ねぎが出してくれるものを邪魔しないくらいになっていた。

ほんちょっとしょっぱいかなと思ったりもしていたけれど、つゆがちょっと少なめになるように盛れば、むしろちょうどよくて、口の中で違和感になってくるような匂いとか感触がなくて、きつくもなくて、飽きてもこなくて、食べるたびにより美味しく感じるようになってくる味だったように思う。

今の俺は甘味と旨味調味料を添加しない食べ物に口が慣れすぎているからまた感じ方が違うのかもしれないけれど、あの頃のなか卯の牛丼というのが、牛丼チェーン店で一番美味しかったんじゃないかと思う。

この十年くらいだと俺は(直近で味が変わる前の)松屋の牛めしに満足していたけれど、もしかすると、当時のなか卯のほうが、旨味添加は強かったのかもしれない。

けれど、松屋はちょっと甘くて、つゆというよりタレに近い感じもするけれど、当時のなか卯はつゆという感じにまとまっていて、出汁も玉ねぎや牛肉の風味もよく感じられた。

そっちのほうが自分の好みではあったのだろうし、少なくても、食べていた当時の美味しいなと思う感覚としては、近年で松屋に満足していたときの感覚よりも、しみじみ美味しいと感じていたのだと思う。

吉野家というのは強烈に吉野家味がするし、匂いにしても、店内に入った時点で吉野家の匂いでしかない匂いが強かったりする。

あの頃のなか卯麹町店の夜間営業は、うどんのつゆの匂いが薄っすらとしているところに、弱めに牛丼の醤油と牛肉な匂いがして、親子丼を作り出すと甘いタレに火が入る匂いがしてきてと、特に何かの匂いが鼻につくということがなかったように思う。

カウンターの奥の調理スペースの中を、牛場から親子場、そこからうどん場と歩いていくと、それぞれの場所の匂いがしてきて、いろんなものを並行して調理してお盆に並べていくのも、いろんな匂いがするぶんだけいい気分だった気がする。


稲田俊輔も昔のなか卯について言及していて、2021年の20年以上前ということだから、1999年から2000年の俺のバイトしていた頃もぎりぎり含まれていそうに思う。

ただ、こんなふうにも投稿しているし、俺の体感だと、牛丼チェーンの中では薄味だったけれど、薄味でふわふわというほどではなかったし、俺がバイトをする前は、もうちょっと薄味で旨味添加も控えめだったのかもしれない。

2021年の投稿に対しては、こういう返信がついていて、家庭味っぽいくらいに味が柔らかとなると、やっぱり俺の頃ですら味は重く変わりつつあったのかなとは思う。

ただ、前回書いたけれど、俺の家でたまに作られていた牛丼は、醤油とみりん風調味料が味の中心という感じの、甘みがちょっと浮いてしまっているような感じの味で、それとなか卯の牛丼はまったく方向性が違った。

ただ、それは俺の母親が、実家では料理の手伝いなどせずに育って、名古屋の栄養短大で料理を勉強した人で、まったく味付けが関西風ではなかったからというのもあったのだろう。

ヒガシマルのちょっとどんぶりの牛丼を使わないような関西の家庭では、俺が大学生の頃になか卯で食べていたよりも、もうちょっと柔らかな味の牛丼が作られていたということなのだろう。


俺にとっては、一番美味しかったなと記憶に残っているなか卯の牛丼は、家庭っぽいとか、無理しない自然な味わいという感じで美味しかったわけではなかった。

とはいえ、味がつけられすぎていなくて、吉野家のような、一口目から吉野家味をたっぷりと感じて、けれど、そこから奥行きをたどっていくことが難しい味わいではなく、食べているものの風味をしっかり感じていられるようになっていた。

一口目は、むしろ、引っかかりがなさすぎるような感じで口に収まっていってしまうけれど、口が慣れてきて、牛丼の風味をよりはっきりと感じるようになるほど、やっぱりうまいなという感慨が湧き上がってきて、最後の一口が一番美味しく感じるような食べ終わり方になっていた。

その頃はそういうことにあまり自覚的ではなかったけれど、十八歳とか十九歳の頃の俺も、今と同じように、そういう食べ進むほどに美味しくなってくるような味わいこそ素晴らしいなという感じ方だったんだなと思う。

(食べれば食べるほど美味しいのが最高というのはこれで書いた)


そんなふうに、俺は大学生になって、たまたまバイトをしたなか卯で、とても牛丼を好きになった。

けれど、春休み中はよかったけれど、また学期が始まると、夜勤は生活に影響がありすぎて、なか卯のバイトは辞めてしまった。

そして、そこから俺は、なか卯が近所にない生活になって、なか卯の牛丼は年に一度も食べなくなってしまったのだと思う。

そこから少しして、友達と二人で一軒家を借りて住み始めて、もう少しして、毎日サークル活動で遅くなっていた頃、多いときは週に七杯とか八杯とか牛丼を食べるようになったけれど、そんなにも猛烈に食べ続けていたのは、吉野家でも松屋でもすき家でもなか卯でもなく、中野と高円寺の牛丼太郎だった。

それについてはまた次回。


(続き)


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