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久しぶりに松屋の牛めしを食べたら吉野家に味が寄せられていた

三年とか四年ぶり程度だろうけれど、久しぶりに松屋の牛めしを食べたら、けっこう食べている感覚が違っていて、なんだかなとなった。

一番違和感があったのは米だった。
張りがなくて、米の香りもあまり感じられなくて、味や風味の薄い米がねっとりと炊かれているような感じになっていた。

たまたまご飯がいい状態じゃないときにあたったのかなと思ったけれど、炊いてから時間が経っている感じでもなかったし、実際に何かが変わったのかもしれない。

とはいえ、松屋は自社精米の無洗米で、浸水から炊飯まで全自動なのだろうし、そうすると、米自体と炊き具合の設定の違いくらいしかないのだろう。

これまでも、松屋の米の味というのは、20年とか長いスパンで見たときには、一時期はとても美味しかったり、また普通に戻ったり、店舗によってばらつきもありそうだったり、吉野家と比べると、いつ食べても松屋のご飯という感じがしていたわけではなかった。

それでも、炊き具合にも、米の味にも、昔からずっと松屋的ないつもの感じというのはあったし、俺はそれを安定して美味しいものに感じてきた。

だから、久しぶりに食べたときも、松屋のご飯のつもりで食べて、あれっとなるくらいの違いを感じて、これはちょっとどうなのかと思ったのだ。

炊き具合の設定にしろ、米のブレンドの配合にしろ、もっちり感を出そうとして何かを変えて、それによってねっとりべっとりとしてしまっていたのなら、その変わり方は俺にとっては残念なものだなと思う。

そして、牛めしのつゆも、前とはけっこう感じ方が違うなと思った。

どうにもいろんな風味が感じにくくなっているというか、舌にちょっと重たく感じるような醤油っぽくて出汁っぽい味がなかなか消えていかない感じになったように思う。

前はもうちょっと甘かったのだと思うけれど、味が変わって、甘みが減ったぶんだけあっさりしたというわけではなく、むしろ、前よりもしょっぱく感じるし、旨味部分がのろのろと口の中で長続きして重たく感じるようになっていた。

前は、口に入れると少し甘いかなという感じがして、けれど、その甘さはすっとひいていく軽いもので、その甘味の軽さと釣り合うくらいに、他の風味もべったり重くならないようにまとめられていたのだと思う。

そういうバランスだったことで、口に入れてすぐに甘さが落ち着いていくのと入れ替わりに、牛肉や玉ねぎの風味をしっかり感じられていたのだろう。

俺が松屋の牛めしを食べていたときの感覚というのは、牛丼味的などっしりとした味でご飯をかきこむというより、具材の風味や味付けのバランスを心地よく感じ取りながら、それをおかずにするようにして、米自体として美味しい米を食べているというようなものだった。

久しぶりに食べた松屋の牛めしは、そういう味わい方をするには難しいバランスに変わってしまっていたのだ。

牛の脂の匂いとか玉ねぎの匂いを感じにくくなっていたのは、うま味調味料(松屋は無添加と言いたがるので酵母エキスなのだろうけれど)の添加が増えたことによるものなのだろう。

甘さを抑えて、食べごたえとして味の重たさを加えるというのは、単純に吉野家に寄せたということなのだろう。

米にしても、吉野家は俺の感覚からすると柔らかくて、歯で張りを感じなくてぐちょっとした感じの炊き方だと思ってきたけれど、それに近付けたということなのかもしれない。

松屋は昔からかなり大きく牛めしの味を変えてきたように思う。

俺が上京して1999年に初めて食べたあまりにも肉臭さを甘みでマスクする気のない塩梅の牛めしから、松屋の牛めしは基本的に美味しくなり続けているという印象だったけれど、ついに俺があんまり好きじゃないなと思う方向に味が変わってしまったということなのだろう。

そして、味が変わるにしても、松屋らしい変化の結果として自分とは合わなったのではなく、吉野家っぽい方向に寄せていることで物足りないものになったことに、俺は過剰にげんなりしてしまっているのだと思う。

近年は自炊したものを食べてばかりになって、外でささっとすます機会がないことで、牛丼を食べる機会も激減してしまったけれど、俺は二十歳になるくらいのころから、ずっとたくさん牛丼を食べてきた。

そして、その中心が吉野家だったことは一度もなかった。

俺にとって吉野家が牛丼だったのは、牛丼をめったに食べることがなくて、漫画やテレビで吉野家の名前を見るばかりだった子供時代とか実家で暮らしていた時期だけだった。

自分で牛丼を食べるようになってから、俺はずっと吉野家ではない牛丼屋を好み続けてきた。

俺は六歳とか七歳くらいで吉野家の牛丼を何度か食べて、大学生になってからは、一時期は週に十杯くらい食べるくらいに、牛丼チェーンの牛丼を食べてきたけれど、吉野家の牛丼をそれほど美味しいものだと思っていたことがあったんだろうかと思う。

この二十年くらいは、吉野家を食べるのは、そのエリアに吉野家しか牛丼屋がない場合だけで、松屋があれば必ず松屋に行くし、牛丼屋が吉野家しかない場合は、他に食べたそうなものがあれば、そっちを食べに行っていた。

そして、定期的に吉野家の牛丼を久しぶりに食べるというのをずっと繰り返しているけれど、そのたびに、やっぱり自分にはあんまり合わないなと思ってきた。

ずっと吉野家になんだかなと思い続けていたのだろうし、牛丼は吉野家が一番好きだという人たちがどういう感覚でそう言っているんだろうと、いつも不思議な気持ちになっていたように思う。

吉野家こそが牛丼屋なのは歴史的に見ればそうなのだろう。
けれど、もう松屋の牛丼の味が変わって美味しくなってからずいぶん経っていて、店舗数も吉野家と大差がないのに、それでも、メディアでも、インターネット上の言説でも、牛丼の話になると吉野家の名前ばかりがあがっているように感じてきた。

安くても美味しいし質も高いというようなファストフードの話になっても、吉野家の名前ばかりあがるし、松屋の牛めしの話題というのは、通販で冷凍の牛めしの具が特売だからストックしておくとか、そういう話題ばかりに思える。

吉野家が牛丼チェーンで一番美味しいと思っている人の感覚というのはわからなくはないし、松屋のほうが美味しいのにみんなおかしいとか、そういうことを思うわけではないのだ。

けれど、俺だって、飛び飛びとはいえ、長期にわたって繰り返し吉野家を食べてきて、その間、日常的に食べているものも変わったし、味の好みも変わっていったけれど、それでも一貫して吉野家には何か満たされないものを感じてきたのだ。

いろんなの牛丼チェーンで牛丼を食べるひとというのはたくさんいるはずだと思うけれど、みんなどういうつもりで吉野家が美味しくて、他はいまいちだとか、すき家のいろんなトッピングの牛丼が好きで、そうでなければ吉野家がいいとか、そんなことを思っているんだろうなと思う。

もちろん俺だって、人生で千食以上は牛丼チェーンの牛丼を食べてきたわけで、そういう系統の味自体が好きなのだし、その源流である吉野家の牛丼を食べていて美味しいなと感じはするのだ。

けれど、もし牛丼チェーンが吉野家しかなかったのなら、牛丼を千食以上食べる人生にはならなかったのかもしれないとは思う。

牛丼チェーンが大好きではありながら、吉野家に対して微妙な感覚がある人というのは、きっと世の中に俺以外にもいるのだと思う。

そういうひとにとっては面白いかもしれないと思うから、俺が吉野家にどうしてももやもやするのがどんな感覚のことなのか、また書いてみようかと思う。



(続き)


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