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人生の目的

「自分は何のために生きてるんだろう?」「私たちはどうして生きているのだろう?」

このようなこと、つまり、人生の目的や意義のようなものについて、思考を巡らせたことがある人は多いのではないだろうか。漏れなく、私もその一人である。

何も考えず目の前のことに集中していた少年期を過ぎ、多感な時期である思春期に差し掛かると、「自分ってなんだろう」とか、「生きるってなんだろう」とか、そういうことを考え始める。それまでは、単に自分の目に見えるものだけにエネルギーを注いでいたのに、10代半ばに近づくに連れて、自己というものを一歩引いて見つめる、ということができるようになる。

私が「人生」や「命」について、ぼんやりと意識し始めたのも、やはりその時期であったように思う。

以来、ずーっとそういうことを考え続けている。そして此度、ふと手に取った書籍に胸打たれる節を見つけた。"人生の目的"という大それた標題で記事を書いているのも、その、考え続けていたことがスーッと薄れていくような、そのような感覚を共有したいという思いからである。

以下、その書籍、五木寛之著「人生の目的」からの抜粋である。

人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。さびしいだけでなく、むなしい。むなしい人生は、何か大きな困難にぶつかったときに、つづかない。人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。自分一人の目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。変な言い方だが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってもいい。私はそう思う。そのためには、生きなければならない。生きつづけていてこそ、目的も明らかになるのである。「われあり ゆえにわれ求む」というのが私の立場だ。
人生の途上で偶然に出会った人が、なんとなく好ましく共感できるところがあったとする。その人の生き方やたたずまいを見て、羨ましく思う。あんな風に生きられたらいいな、と、なんとなく思う。そして、その人にいろんなことをたずねて、語り合っているうちに、ふと、「自分はこういうことを信じて暮らしている」と控えめに教えてくれた。それに自然と心を惹かれて、自分も同じような生き方をしたいと思い、もっといろいろ知りたいという気持ちが生じてくる。そういう人と出会うか、出会わないか。それは自分で決めることではない。求める気持ちを持ちつづけていれば、必ずそれが叶うとも思えない。それこそが運命であり、宿命というものだろう。いずれにせよ、出会うためには、生きていなければならない。

私たちには、生きている目的などない。しかし、生きている。だからこそ、自ら目的を定めることが大切なのだ。

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