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極論は常に間違っているという説

そもそもが白と黒だけではできていないこの世界です。善悪や正誤という二分された単純な認識を持つことは、自分の内外に衝突と葛藤を生み出し、結果的に自分自身の不幸へと繋がります。


高潔な理想を振り返り、若かったなって思う

私がこれまでの生涯で最も繰り返し読んだ本、そして私の本棚で他のどの本よりもボロボロになっている本として、バートランド・ラッセルの「幸福論」があります。

ラッセルは20世紀を代表するイギリスの哲学者のひとりですが、この本は小難しい「哲学」という感じでは全然なく、むしろこんなに面白くて役に立つ本が他にどれくらいあるだろうかと個人的には思っています。「よくよく考えれば常識的で合理的なのに、一般的にはあまりそうは思われていないこと」というのが世の中にはたくさんあります。人生について少しでも真面目に考えている人なら、この本から得るものは多いはずです。書店に寄るときがあったら、岩波文庫のコーナーで探してみてくださいね。岩波はいいぞ!

この本の印象的な部分はどこかというと、それは全部なのでそのまま買ってくださいという話になるのですが、今回特に取り上げてみたいのは以下の部分です。第2部の「幸福をもたらすもの」から、「第十六章 努力とあきらめ」の章の書き出しです。

中庸というのは、おもしろくない教義である。忘れもしない、私も若いときには中庸を軽蔑と憤りをもって退けたものだ。なにしろ、当時、私が賛美したのは英雄的な極端であったのだ。しかし、真理はいつもおもしろいわけではない。一方、おもしろいというだけで信じられているものもたくさんあるが、実際には、おもしろいという以外に有利な証拠はほとんどない。中庸が一つの適例である。つまり、中庸は、おもしろくない教義かもしれないが、実に多くの事柄において真実の教義である。

ラッセル「幸福論」、安藤貞雄訳、岩波文庫、p.254

私はこの「軽蔑と憤りをもって」というところに「わかる! 若さってそれ〜〜!!」という感じで笑ってしまうのですが、これは真面目に考えるに値する、重要な指摘です。今回はこの中庸について考えてみます。

世界はそのように単純明快なのだろうか?

ラッセルが中庸という考え方を提唱したのは、自分自身を不幸にしないための心理的な習慣としてでした。

なぜこれが自分を不幸にしないために必要なのかというと、それは極端な認識は現実世界とのズレを生じさせるからです。外の世界との摩擦が多く、周りの人たちと衝突してばかりだという人が、葛藤のない平穏な心で幸せに生きるということは難しいでしょう。ここで、中庸という視点が現実世界とのズレの解消に役立つのならば、もしかしたら中庸というのは世の中の認識方法としてだけでなく、もっと具体的な判断や行動の指針として、客観的に正しい場合も多いのではないかという考え方が出てきます。

私が上記のラッセルの言葉を思い出したのは、私にとって初めての出版物となる書籍を執筆する作業の途中でした。ここ2ヶ月くらい「社会人のための楽器の継続と上達の手引き」という本を集中して書いていたところです。
(後日追記:その無事出版されて、Amazonから入手できるようになりました!)

音楽をやるというのは、一般的には才能とかセンスの世界だと考えられがちですが、本当は理論とか技術の積み重ねというのがすごく大切な世界です。文章でも音楽でも、「感情の赴くままに」表現できる人というのは、それを身体の外に出すための技術を身につけた人だけです。音楽好きな人であれば、テクニック至上主義の音楽は面白くないという視点も持っていると思いますが、それでもテクニックなしには何もすることができません。

書籍の執筆という慣れない作業を行っていく上で、こうした楽器の上達についての背景を考えていると、自分が今まさに行なっている「文章を書く」という技術の中にも、何か共通する手触りを感じる部分がありました。書くという行為もまた、「直感とフィーリングによって見えたものを、論理によって組み立てる」という、両面性のある世界だからです。

で、個人的にふとメモした言葉がこれです。

何をするにしても直感も理屈も要るし、センスと技術の両方が必要だし、主観性に走ることも客観性を持つこともどっちも大事なんである

2024年1月26日 18:00 個人的メモ

これに付け加えるならばさらにあって、「才能か努力か」なんていうのも同じです。どっちも大切に決まっています。二者択一じゃないんです。「他者からの称賛か、自分自身の納得か」もそうです。このような例を挙げてみれば、他にもあるでしょう。

どうしてそんなふうに単純に考えてしまうのでしょう? 世界ってそんなに単純ですか? あなた自身って、そんなに簡単に割り切れる存在でしょうか?

政治的議論は白と黒だけでできている

唯一これだけが大切なことなのだという主張がされるとき、それはほとんど常に間違っているのではないかと感じます。

人が何か特定の立場を取るというときというのは、もちろんそれに全面的に賛成しているということを意味しません。金だけが力を持つ資本主義が正義なのかといったら、それはまったくそうではないけど、少なくともこれまでの人類の歴史でいちばん人々の生活をうまく向上させてきたのは、資本主義という仕組みです。東側諸国の計画経済の失敗の話は、世界史の時間に習いましたよね。資本主義が正しいというのは、それが完全無欠なのだという意味ではなくて、「取りうる手段としては最も妥当であるようだ」ということです。

民主主義というのもそうです。この制度の運用の中に問題点が山ほど挙げられるにしろ、ではそんな民主主義は捨てたほうがいいのかというと、そうはなりません。イギリスの元首相のチャーチルは、「民主主義は最悪の政治形態だ。他に試みられたあらゆる形態を除けば」という趣旨の言葉を残しています。

一例として社会や政治といった話題を挙げてみましたが、このような領域というのは本当に、極論が幅を利かせている世界です。みんな、自分たちの正義が悪をやっつける話が大好きです。そして、それでいいと思っています。

それでいいのでしょうか。世の人々にとって大切であるはずのことを、そんなに安直に考えていいのでしょうか? 誰かが幸せになりますか? それで何か正しい答えが出るのでしょうか。正しい答えが出たことが一度でもありましたか。そうではないはずです。

自分が幸せになるための心的装備として

ここで、この記事のタイトル「極論は常に間違っているという説」という文言を見返してみると、「常に」という言葉がついていることに気づきますね。おやおや、自己矛盾かな? 「常に」ということはないはずです。「だいたいそう」ということしかありません。なので、私はこの記事のタイトルの最後に「説」という一文字をつけて、これは私が持っているひとつの考え方だよということを明らかにしておきました。

「例外的なケースが存在する以上はそれを主張すべきでない」と言うなら、何も言えなくなってしまいます。それも別の極端な姿勢の一例でしょう。だから、だいたいにおいて正しいのだという認識のもとで、自分の意見を持つということは大切です。

人間とか社会というのは、複雑かつ曖昧なものです。世界は善と悪の2色でできているわけではないし、正しいことと誤ったことが個別の実体として存在しているわけではありません。その複雑さや曖昧さに耐えるだけの心を持っていたほうがいいし、この社会で大人として暮らすなら、それはおそらく持つべきものです。義務感で持つものではないです。最初に「幸福論」からの引用で話を始めたように、このような曖昧さを許容できる姿勢を身につけることは、結果的に自分自身の幸せに繋がります。だから、何よりも自分自身が気分よく生きるために、それを持っておいたほうがいいんです。

私がnoteのような場所でいろいろ書いていることも、このような曖昧な事柄に関する考察が多い気がします。わざわざそういうことを書くのは、そうした微妙なことについて考えることが、多くの人にとって本当に難しいからです。私自身もそうで、こういうことを言っている自分はすべてを凪の心で受け入れられているかというと、そんなことは全然ありません。人間はロボットでもAIでもないので、それは無理というものです。

法的な成人年齢に達した瞬間に大人になりました、ということが決してないように、これは徐々に身につけていくべきものなのでしょう。本当に人間って日々成長だよなあ、ということを改めて感じます。

関連書籍

「単純化されすぎて現実には役に立たない言説ばかり」という分野のひとつに、投資というものがあります。これについて解説した私の著作が「投資に正解は存在するか:堅実な株式投資と資産形成の入門ガイド」です。

ペーパーバック版Kindle版が好評発売中で、Kindle Unlimitedにご加入の方は全体を無料で購読できます。また、noteには試し読み版もありますので、気になった方はぜひチェックしてみてくださいね。

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