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変化と拡張の感覚について
以前どこかで読んだ話に「人は年齢を重ねると音楽的嗜好が固定化されて、10代の頃に聴いていたような音楽しか聴かなくなる」というのがある。
これはたぶん、本気の音楽好きには当てはまらない。すぐに思いつく理由はふたつある。
まず、どんなに素晴らしい作品であっても、人は同じ刺激を受け続けるとだんだん感覚が飽和してきて、そこから受け取れる感動は薄くなっていく。この「順応」というのは生き物の基本的な性質だから、必ずそうなるはずだ。そして、本気の音楽好きというのは毎日本当に音楽ばかり聴いているから、10代の頃に夢中になった作品というのは、30歳を過ぎたような頃にはことごとくその飽和のポイントを迎えていることになる。
なので、同じアーティストばかり聴き続けるというのは味のなくなったガムを延々と噛み続けるようなもので、これに満足しているということは基本的にできない。
次に、ライトな楽しみ方と本気の趣味の違いだ。何か本気の趣味を持っている人は、「自分の感性で受け取れる範囲をとことん拡大させる」という記録更新的な面白さを知っていると思う。SF小説でも創作ラーメンの食べ歩きでも何でもいいけど、こうした分野には多くの人を認めさせる古典的名作・名店・定番の味などが存在する一方で、思わず「こんなの表現ってアリなの!?」と言わせるような、型破りで新しい体験を提供する挑戦的な人物と、それを求めるコアなファンが少なからず存在する。
つまり、知っているものを味わうだけでなく、未知のものを開拓していく、今まで理解できなかったものが理解できるようになるという過程そのものに楽しみを見つけているわけ。これが音楽の話なら、新たな作品を聴かないという時点で、本気の趣味としては成立していないことになる。
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もう少し異なる意見もありそうだ。たとえば、私はここ10年くらい趣味で楽器を弾いている人なので、小説だったら「自分で書く」とか、食べ物ならば「自分で料理する」といった領域まで進まないと「本気の趣味」とは呼べないのではないか、ということも思ったりする。まあそれは別の話で、今回の話の本筋とはあまり関係がない。
とにかく、何か作品を受け取るという趣味に限れば、以上のような理由によって、新しいタイプの作品を探し続けるということは必須になるんじゃないかなって思う。
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別に本気の趣味のほうが偉いっていう話ではない。ライトな趣味として、昔から好きな思い出の音楽や、馴染みの味の食べ物を求めるのもそれはそれでいいことだ。というか、今「いい」という言葉を使ったけど、趣味というのはそもそも他人がいいとか悪いとか言うもんではない。
たとえば、私はコーヒーが好きだけど、本気のコーヒー好きというわけでは全然ない。缶コーヒーというものを例にとってみよう。本気のコーヒー好きなら「あんなものまずくて飲めない」と思っている人も多いのではないかと思う。
でも、あの夏場は冷たい・秋冬は温かい缶コーヒーによって現れる、ほんの10分か15分くらいの憩いの時間が、私は昔から好きだ。気持ちを切り替えてまた頑張ろうというとき、糖分とカフェインがすぐに摂れるのも便利だ。こういった短くてお手頃な休憩時間は、私の生活には欠かせない。これを「本物のコーヒーの味を知らない」などと評するのは、昔からある慣用句で「余計なお世話」という。
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ちょっと脱線した。ここまでの話はこうだ。
何かを本気で突き詰めていくなら、「自分が理解できる世界を拡張する」という過程が必ず出てくる
何かを本気で突き詰めていく人がいたとしても、別にみんなが同じものに対して同じ程度に本気になる必要はどこにもない
で、これがただの趣味の話ならばどっちでもいい。本気になってもならなくてもいい。週末のプライベートの趣味だけでなく、昼間の仕事だって同じだ。本気になってもいいし、ならなくてもいい。
しかし、人間が生きていて、何も本気でないというのはどうだろうか。仕事は適当でいい。それで、帰ってからもゴロゴロしているだけでいい。趣味とか特にない。人間関係とか別にいい。恋愛だの結婚だの面倒くさい。こういう人がいたとして、それは「生きている」のだろうか。生物としてまだ死んでいない、という以上の何らかの価値がそこにあるのだろうか。
「がむしゃらに生きてもしょうがないよ」というのもひとつの価値観・人生観であって、それを否定したいわけではない。ただ、少なくともそういう境地にたどり着くまでの道のりには、ある種の真剣さ、妥協のなさ、思想としての強度が求められるのではないだろうか。
「生きてるだけでいい」「そのままのあなたでいい」というのは何も間違っていない。でも、それはフニャフニャした感覚じゃダメだ。その主張を支える積極的な何かが、あなたの中になければならない。そしてそれは、あなた自身が本気で掴んだものでなければならない。
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何に対して本気になるかというのは、それぞれの好みの問題である。だから、仕事に夢中になってもいいし、マイナーな趣味に没頭するのもいい。恋愛や交友関係を生きがいにしてもいいし、ボランティアを始めてもいい。これをしなければダメだ、ということはない。
それでも、おそらくあなたは、何かに真剣にならなければいけない。そうでなくてはならない。仮にそれが恋愛であるならば、10代の頃に夢想した王子様がこの世のどこにもいないという事実は、ただの幻滅であってはならない。
それはスタートラインである。私たちは単なる身勝手な空想としてでなく、生身の人間である他者が何を考えて、どう振る舞うのかということを理解しなければならない。そのような現実の中で、実際に関係を築き、それを維持していく方法を学び、安直なおとぎ話の中にはない、人間関係の微妙な側面とそこに含まれる価値を理解できるようにならなければならない。
これはまさに、最初に述べた拡張の感覚である。ただただ甘いだけや脂っこいだけの味を求めるのではなく、もっと微妙な味をどこまで理解できるようになるか。それがなければ、ジャンクフード以外で満足できず、恋愛は期待と失望の不毛な繰り返しであり、職場のいざこざも政治的なニュースも、すべて正義と悪の対立としか見ることができないような人間になってしまう。
まだ幼い子どもであれば、世界の微妙な側面が理解できなくても仕方がない。しかし、あなたはもう子どもではない。
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加齢と成長はイコールではない。変化していなければ、私たちは生きてはいないし、5年前や10年前と同じものしか理解できないのなら、同じものしか好きになれないのなら、以前と同じ「嫌いなもの」を同じ解像度と解釈で嫌悪し続けるだけなら、やはり生きてはいない。
だから、これは単なるサブカルチャー的な趣味がどうとかいうだけの話ではないんだ。私たちは周囲に存在するほとんどのものを理解できない状態でこの世に生まれる。大人になっても似たようなものだ。世界に100のものがあるとき、子どもの頃は2つくらいが見えてて、成人した今は6つか7つくらいが見える。それは十分ではない。まだ全部ではない。
問題は、私たちが「それで全部だ」と思い込んでいる点にある。知らないもの、見えないもの、理解できないものは、定義の上からして、私たちの思考から常に抜け落ちている。今言ったことはトートロジーみたいなもので、「頭の中にないことを頭に置いて考えることはできない」というだけだが、これを認識するのはすごく重要なことだ。
知らないものを知ろうとして知ることはできない。私たちにできるのは、「今見えているものだけが世界のすべてではない」と認識することと、今いる場所から外へ外へと、意識的に歩き続けることだけだ。
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「これが世の中だ」「これこそが人生だ」などと内容を示せるはずがない。そんなものが面白いとも思えない。ただ、この変化と拡張という感覚については、指針としてそんなに間違っていないように感じる。答えはわからない。誰もそれを知らない。それでも、探すということは正しい。目を見開き、歩き出すことは、それ自体で正しい。
死人は動かない。私たちの生を証明するものは変化である。
(essay 4 - 2024.8.8)
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