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人を愛することに、感情の強さはあまり関係がない

誰かに向けられた強い感情を愛と呼ぶのは、実はあまり適切ではありません。人を上手に愛するには、愛するための能力が必要で、そこにはスキルと訓練という考え方が関係してきます。


そもそも、愛って感情なんだろうか?

誰かのことがすごく好きで、強く愛しているのだと言う人がいますね。これに対して、私は普通に考えられているような愛情の強さって、本当はそんなに重要ではないような気がしています。

誰かを愛することができる人がいるとしたら、その人はたぶん、もっと日常的に接するような他の誰かのことも、同じようにうまく大切にすることができるはずです。なぜかというと、愛というのは特定のタイミングで発生している感情のことではなく、その人の内部にある心の構造、もっと具体的に言えばスキルと訓練の成果の問題だからです。

愛というのは、特定の誰かに向けられたひとつの強力な矢印ではありません。もっと方向性のない、その人自身の内部に定常的に維持されている性質のことです。ここには感情としての強さや、激しさというのは必要とされません。強力な矢印が愛情だというのは、大抵の場合が片方もしくは双方の勘違いで、その実態は単に執着の表れである場合が多いものです。執着は愛情とは異なるし、普通に愛という言葉からイメージされるような価値を持つものでもありません。

スキルという言葉を使っていますが、これはモテるための小手先のテクニックみたいな話をしたいわけではないです。人が何かをするときには、ほとんどすべての領域でスキルが関わってきます。世の中を見渡してみれば、スキルが必要ない仕事というのはそうそうないはずです。事務仕事にも専門職にもスキルは要るし、楽器を弾いたり絵を描いたりするといった趣味についても、センスや感性といった安直な言葉で片づけるべきではありません。これらの創作や表現といった分野も、実際にはスキルと訓練によって成り立つものです。

もっと日常的に、悩みごとやネガティブな気持ちに対処するというときにも、自分の心をうまく乗りこなすというスキルの問題が関わっています。誰かに愛情を持てるというのは、以上のような「生きるための全般的な心のスキル」の一部分なのだということです。

気持ちの強さだけでは何もできない

あなたが誰かに対して愛情深くあると言うとき、どのような振る舞いをするでしょうか。日頃から感謝を伝えること、親切にすること、相手のことを思いやって行動できること。自分が何か間違ったことをしたときに、ちゃんと謝れること。相手への要望があったり、摩擦やすれ違いを感じたときに、きちんと話し合えること。すぐに思い浮かぶのはこのようなことですね。

これらの実行もスキルの問題です。大抵の人は、心の中に何らかの意味でのやさしさや思いやりを持っており、欲と計算だけで動いている自己中心的な人間というのはそうそういないものです。しかし、そうした人間性を適切な場面で適切に表現できるかという点は、あくまでその人の身につけている能力に左右されます。

相手にただ「ありがとう」や「ごめんね」と言うだけのことに、いったい何の能力が要るのだと思うかもしれませんね。でも、世の中にはそういうことを全然言うことができない人がけっこうな割合で存在しているということを、おそらくあなたも知っているでしょう。

そして、人との関わりの中には「相手と自分は別々の価値観を持った存在である」「他人の心を直接読むことはできない」といった当たり前の現実があります。これは現実についての知識ですが、単に頭でそう知っているというだけでは十分ではありません。

現実の人間関係が思いどおりにいくということはほとんどないので、そこで人は相手に対して苛立ったり、逆に自信と勇気を失って引っ込みがちになって、本来であれば価値あるものが得られるはずの深い人間関係を避けてしまったりします。他者との間に何か問題が起こったとき、平静な気持ちでそれに対処できるようになるには、心がそのように訓練されている必要があるということです。

救急隊員が人を救えるのは、彼らが専門的なスキルを持っており、現場で適切な対処を素早く、冷静に行うための訓練を積んでいるからです。思いやりパワーだけで人を救うということは絶対にできません。また、避難訓練や防犯の訓練といったことがときどき行われるのは、「人は普段行っていないようなことを、非常時にとっさに行うことは決してできない」という考え方に基づいています。

このようなことを考えれば、あなたの目の前に誰か突然すごく大切にしたいと思うような人が現れたとしても、急にその人を愛することができるようになることはないということがわかるでしょう。

自分のためにレベルアップしていく

よく「男女間の友情は存在するか」という話がありますね。これは個人的には「人による」としか言えないように感じていますが(組み合わせ次第では当たり前に発生する一方で、まず発生しそうにない組み合わせもある)、友情と愛情というトピックを考えると、ここには別の重要なポイントがあります。

それは、ごく普通の人間関係を築くことと、深い愛情と呼べるような関係を築くことの間には、かなりの数の共通項目が存在するということです。

職場の人間関係というものを例に取ると、これはお互いが好きだという理由で集まっている集団ではないので、普段の友達付き合いと比べれば、立場の違いや考え方と感じ方の違いは大きくなります。難しい物事を進める際には、利害と思惑の調整といった話も出てきます。そういう背景があるので、この世に「職場で人間関係にまったく悩んだことがない」という人はほぼ存在しないでしょうし、それは仕方ありません。

ところが、ここで真剣に悩みながら身につけたスキルというのは、実はもっと親密な関係に対しても応用が利きます。異性との関係がすごく近くなれば、普通の友人関係であれば気づかないような弱さや欠点も見えてきますし、生活を共にすることになれば、経済面や生活習慣について、以前よりずっと実際的なすり合わせが必要になるはずです。これは仕事ではないですが、「何か大切なことを実現するには、関係者全員の継続的な努力が必要なのだ」という点では、仕事と何も変わりがありません。

とはいえ、人生全体を仕事や修行のように考えると、単に苦しいだけになってしまいます。これはゲームでレベル上げをするとか強い装備を集めるとか、趣味の分野で知識と技術を深めていくことのような、楽しみのひとつとして受け入れられるようになれるといいと思います。頑張らずに何か価値のあるものを得るということはできないので、この頑張りは必要なことです。

仕事のためにスキルアップをするのはなかなかやる気が出ないという人でも、もっと直接的な自分自身の幸せのためなら、もう少し頑張れるのではないでしょうか。人間関係には「自分が幸せでなければ周りの人を幸せにはできない」といった法則のようなものがあります。あなた自身が幸せになれれば、たぶん周りの人に対してもよい影響があるはずです。

愛情を持つ能力について理解するとき、それを普通にこの世で流通している恋愛のような、刹那的で不安定なゲームとしてとらえるのは適切でないでしょう。愛が心の構造の一部だという指摘を考えれば、その先には「自分の人生で、死ぬまでの何十年かをかけて内面に構築していく、心というただひとつの構造物」とも呼べるものが想定できます。人格、人となり、人間性など、呼び方は何でも構いません。

一般的に「自己肯定感」とか「生きがい」といった言葉で語られるものも、こうした単一の大きな構造物(つまりあなた自身の心)の一側面でしかないのではないか、というのが私の考えです。これを育てていくということが、私たちが長くも短い自分自身の人生の中で行なっていくべき、最大の仕事になるのだと思います。

結局のところ、それがなければ人生は空虚なものでしかないです。少しでも生きるということに対して真剣でありたいと願っているのなら、私たちはそれに向かって努力せざるを得ないのではないでしょうか。

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