”エリート”たちに対する感情の変化
恵まれた者との戦いは、死ぬまで続いていくのだろうと感じる。
僕が僕として生き続ける限りは、それが人生の意味になってしまったためでもあるけれど・・・。愚かな思考と非難する人はいるだろう。
エリートが嫌いな理由は、単純に「恵まれているという事実と過去」が確固たるものとしてあり、それに付随する「幸福な状況」を他者や環境から得られた世界を持っているところからきている。
努力や己の選択だけではない、もっと大きな存在からの”祝福”があったからこそ恩恵を与えられているわけであって。
確かに、積み重ねてきた時間や労力、そして機会を上手く運用・見極めができたから質のいいものを手にできた。それは、他からのものよりも自己の問題であるため無下にすることはできない。
それでも恵まれた状況にいる者たちを、どこまでも毛嫌いし続けるのは、やはり羨望があるからである。また、何よりも自分が背負い続けなければならない重圧への苦しみがあるからと感じたのだ。
これまでとは違う目線で、エリートたちは目の敵にしてきた理由を考えると
単純に恵まれているというよりも、時折見せる「能力の不活用」や「簡単な諦め」というところが見えてしまうことにある。
それでも、より良いものを得ていくという”ズルさ”が拍車を駆けていたのであって、要領の良さや手を抜いてもやってのけてしまう振る舞いが羨ましかった。
もしかすると、そうした不活用や諦めたことで得られない「何か」もあるだろう。そして、その綻びからよりある一定以上のものが手に入らなくなってしまうかもしれない。
今まで得てきたものも、もちろん「許せん!」という気持ちは先行するわけであるけれど、そうした恵まれた中で「苦しみ」を見せないで欲しいというのがあった。
自分自身を基準にするれば、死ぬまで自分の人生を修正・補填することを繰り返していかなければならない。
しかし、エリートたちはいくらでも変化することができる。
キャリア・パスも、幸せになれる切符もいくらでも作ることができる。
だから、エリートたちには負けるということも幸せになるということも諦めないで欲しい。いや、幸せに成り続けないとならないのだ(must)。
恵まれたものは途中から手放すことも、恵まれていないものたちに慈悲など与えなくていい。本当の意味で、「助ける」ということはできないのだから。
結局、嫌いなのは変わらないかもしれない。
ただ、できるのにできないという状況にいてほしくないのだ。
そう、恵まれているということは「成功し続ける」「幸せになり続けなければならない」という他者からの目や呪縛があるのかもしれない。スタート時点から庇護下に置かれている間に、幸福を一定以上享受してしまうことも苦しみなのかもしれない。
その逆も然りである。恵まれないもの、恵まれるまで戦い続けて、死ぬまで何かを埋め続けないとならない。
エリートも非エリートも同じようなもの。人間だから。
だから、この胸の奥の引っ掛かりはエリートに対するものというよりも、自らの苦しみに対する「終わりのない戦い」への恐怖なのである。
切符を持つ、パスがある、カギを作ることができるエリートたちよ
慈悲や貢献はいらない、己の幸福のみ望み
高みの見物でいて欲しい
僕がその世界に行って「変革」を起こすまで。
夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。