御成 信(みなり しん)

「わかち愛」という女性性を開花・拡大させることで実現させる『調和の世界』 和かち逢えば…

御成 信(みなり しん)

「わかち愛」という女性性を開花・拡大させることで実現させる『調和の世界』 和かち逢えばお金の価値を下げられる お金が価値が下がった世界はどんな世界かな? そんな「どうし」(同志・同師・同士)が集う時空 手愛手 https://teate-jp.com/

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最近の記事

『自己肯定感を上げる』という幻想②

以前に自己肯定感は上げる のではなく 足枷になっているものを 外せばいい。 上がるのではなく 下げなければ良いと 書きました しかし、今日ある方のSNSの 投稿を見て 直感が降りてきました 自己肯定感を上げるのではなく 自己信頼感を深めることだと 自分を信頼していなければ 自分を肯定することはできる はずありません。 一生懸命、「自分は素晴らしい」 「失敗を否定しない」とか 無理やりポジティブに持って いこうとしても うまくいかない

    • 『危機一髪』(死)という幻想

      神との対話シリーズの 『神へ帰る』の中で 危機一髪という出来事は 危機一髪ではなく いずれも死んでいる だが、まだやることがあるから 強い意志で戻ってきている としています。 危機一髪 この経験は誰しもあること でしょう ない? そんなはずはありません。 車にひかれそうになった。 救急車で運ばれた。 溺れそうになった など解かり易ものから 自分ではよく気づかずに 危機を回避していたなど 必ず危機一髪の経験をしている はずです。 僕も

      • 『善悪』という幻想

        『自分自身を新たに創り出す ために忘却という手段に頼る 必要はなくなり 意識して分裂を利用し はっきりとした理由で はっきりした目的のために 分裂した者として現れるだろう』 【神との対話②より】 神との対話②の一文です。 これは 分裂をさせている者が意図して  つまり 反対側を体験させるため 『わたしたちはみなひとつ』 という体験をさせるために 分裂者を演じているとしたら その分裂者は悪なのか? ということを意味しています。 で

        • 『学ぶ』という幻想

          「学ぶ」とは 教えを受けて 今まで出来なかった事が 出来事ようになる 『学ぶ』 一見素晴らしい言葉 のようですが 自分に制限をかけていない でしょうか? 学ばなければ何もできない という自己限定という制限を 私達はワンネスでもあり そして何度生まれ変わって いるのです ですので 誰かの経験も 過去の経験も ほんとうはすべて知っている のです。 ただ、すべて知っていて 生まれてきては 新たな体験をこの地球でする ということができな

        『自己肯定感を上げる』という幻想②

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        • 私の真實
          11本

        記事

          『目覚める』という幻想

          昨今、目覚めている 目覚めていない それにより進む2極化と 言われますが 僕は何かに覚醒したから 『目覚める』のではなく 『ただ、先に思い出しただけ』 のことだと考えます 僕達は物質的な世界に 生まれてくる時 あえてすべてを『忘れて』 生まれてきます。 この地球上で新たな体験をして 新たな気づきを得て 自分を進化させるために。 例えば、自転車を初めて乗れた 時の嬉しさと 『乗れる』と知った2回目以降 では全く感動が違いますよね 最初から

          『目覚める』という幻想

          『自己肯定感を上げる』という幻想

          自己肯定感を上げるとは よく聞かれる言葉ですが 本当に対処すべきは自己肯定感 を下げている要因(足枷)を 認めることではないでしょうか? 自己肯定感を上げようとしても 足枷(下げている要因)を 外さないと 頑張っても苦しいだけです。 そうではなく 下げている要因を目を向け それを受け入れる。 受け入れる方法は人それぞれ でしょうが 目を向けなければ 足枷を外す事ができない。 だから自己肯定感を上げよう としても苦しくなるのでは ない

          『自己肯定感を上げる』という幻想

          『失敗』という幻想

          失敗という言葉 失って敗れる・・・ 本当にやる気をなくす 漢字です。 誰しもあまり聴きたくない 言葉ですよね? 失敗について 神との対話シリーズでは 以下のように書かれています。 人生に失敗はない 様々な側面を現す成功が あるだけだ  【神とひとつになること】 たしかにそうだなぁと 思います。 ただ、僕はここから更に 発展させて 人生に失敗はない 様々な神の側面を現す体験が あるだけだ と考えるようにしています。 全て体験。 自

          『一日三食』という幻想

          一日三食、食べましょう とはよく言われることです でも 本当に三食であっているので しょうか? 僕も過去は 「三食、食べない」と という思いに縛られて、 朝、食べないとなんとなく 「まずいなぁ」 夜も、そんなに食べたくないのに、 「夜ごはんを食べなくては」 という固定観念で食べていた ということが、ありました その固定観念が崩れたのは 『不食の人』がいると 知ってからです た、食べずに生きている人が いるなんて!? と驚愕したと共に 「

          『一日三食』という幻想

          『短所』という幻想

          多くに人が自分の短所に 囚われがちです。 なぜなら とても分かりやすい特徴 だからです。 あの人はできるのに 私はできない。 また、失敗してしまったなど 出来ないからとても印象に 残るのです。 一方で 長所には気づいていない人が たくさんいます なぜなら、いとも簡単に できてしますから 自分でその部分を気づけない のです。 「誰でもできる」と思っている のです。 僕は すべての人はこの宇宙を彩る パズルのピースと考えています。 だから

          『過去は変えられない』という幻想

          過ぎてしまった過去は 変えられないと言いますが それは本当でしょうか? 私はそうは思っていません。 よく言われるように宇宙には 時間という概念がないですし (これは私も完璧には 理解していません) 自ら過去が変わったのを実体験 しているからです。 前述しておりますが、僕は父を 憎んでいて 一生赦すことは出来ない存在でした 真實を理解する51才までは、、、 (理解した時はすでに他界して いました) 父が私に『赦す』という体験を するために

          『過去は変えられない』という幻想

          『結果』という幻想

          神との対話の中で 神は 『結果は求めない プロセスこそが大切だ』 としている 何となく理解はしていたが 真意は、、、? という感じでした。 その真意を今日体験しました 今日、二人の方にちょっと 厳しめの発言をした それは熟考した上での発言 2人の将来を思って そして愛を込めて その時 2人がどう思ったか? という結果は必要ないと 気がつきました。 どう取るか?はそれぞれだし そこは僕がコントロール できない部分です。 後

          『休日』という幻想

          休日というと 学校が休み 会社が休み と多くの方は考えるのでは ないでしょうか? でもこのとらえ方ですと 休日でない日 =平日が苦しくなりませんか? そして 金曜日の午後から日曜日の 午前中まではハイテンション 日曜日の午後からは 明日から学校・会社 明日も、明後日も学校・会社 そしていつの間にか 休日は平日の息抜きの日に なってしまう・・・ これは楽しくないですよね? かつての私もそうでした でも、もっとおーきな視点で 考えると「休日

          『重要』という幻想

          自分が選択しなければ 何事も重要なものにはならない 自分が出来事に意味を付け加え て重要なものにしている 【神との対話3より】 起きた出来事に『印』を つけるのは自分です 仮に問題な出来事だとしても 『重要かどうか』は自分が 決めています 問題を『重要』として、重く とらえ動きを悪くするのか? ただの問題として、スピーディー に対処するのか? どちらが良い結果となるのは 明らかですね 決めるのは自分なのです 仮に、他人が重要と言っても 決め

          『後悔』という幻想

          後悔の意味 「自分のしてしまったことを あとになって失敗であった とくやむこと」 これもたしかに後悔だと 思いますが 本当の後悔は 「やらなかった事をあとに なってやればよかったと 悔やむ事」 だと僕は思っています。 行ったことは全て体験・経験 そこから何かが産まれる しかし やらなければ何も産まれない 何も残らない。 やっぱりやればよかった という後悔しか残らない そして 課題をクリアするために もう一度転生する 僕は前世で二度と後悔

          『修復』という幻想

          修復 → 直してもとのように すること 関係や物質を直す時に使う 言葉です。 壊れた人間関係を修復する いい感じですよね ただ 壊れた関係性というのは 修復できるのでしょうか? 過去に何か重大な問題が あったから関係性が壊れた のであって それを元のように戻す 昔のような関係性に直す のは出来ないのではない でしょうか? 再創造 →再び新しいものを 創り出すこと 関係性を戻すのではなく、 再び新しいものを創り出す これであれば

          『迷い』という幻想

          日々、生活していると 『迷う』 ということは結構ありますよね やるかやらないか 進むか止まるか 右か左か なぜ迷うのか? そこには魂の意図を止める 固定観念があるからではないか と思っています 本当はこう感じているのに 『いつもはこうしている』 『普通はこうでしょ』 という固定観念によって 迷わされている 逆に考えると 迷いがない時は突き進めるし たいていうまくいきますよね? そしてうまく行った時に 「やっぱりね」と思う 個人的