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公仕 -仕え還元すること-



名医というもの

 たいへんユニークな人がいたのでこちらに記載する。医療も占術も人に尽くすこと変わりなく、金額が一見高そうに見えるが記事を散見すれば人となりが解る。医療と占術の結びつけは日本人らしい医者だなあといったところ。

 患部を見て人を見ずという医者を職業的医者という。胆識ある医者を名医という。名医とは、俗に名の通った医者という虚像を指すことではなく、対症療法という対物的幾千幾万の化学式を記憶して施すだけの者でもない。地位名誉を得てもなお飽き足らず、自らに学び問い続け、目の前にいる者の痛みを複合的角度から診ようと尽力する者を指す。ある種神官であり、日本や世界の歴史を辿れば呪術師と通じ、医者は国家資格であるから公的呪術師にあたる。

 町医者というものは仮に職業的医者であっても、接触頻度に応じて患者個々人への理解が深まりその者たちとの間柄に縁って名医となる。端的に云えば初めましての他人と毎日顔を合わせる家族、どちらのほうが確信を以て助言することができるかという具合だ。あまり他者に興味のない人間であっても縁の影響下にある。

 どうも昨今は時代の風潮として患者自身、右へ左へ右往左往し名医という虚像を求める。名医の像なければ薬を求める。医者を虚像と化してしまうのは医者自身でもあるが患者自身でもある。

 いかなる職業、いかなる聖人でも同じことで、時間に追われたり、お金に追われたり、人に追われたりすると提供する価値は低下する。これは使と任の違いであって先人の名を挙げればキリがないが、安岡正篤なり山本五十六なり孫子なりを視ると、人を使ったり使われたり物を使ったり使われたりせず、人に任せたり任されたり、物に任せたり任されたりを心得ている。和服や武道も任を用いて滑らかな動きができるが、使おうとするとぎこちない動作となり結果的に物に使われることとなる。

 美味しい料理を作る小さな町のお店でも、名が急に知れ渡り行列のできる料理店となってしまえば、提供する料理の味や提供物への真心は格段と落ちる。政治家を志す者でも議会に追われたり、世間に追われるとその者は疲弊して志ですら弱らせ、自らを毒と成し内外へ発してしまう。
 国民全体の奉仕者たる公務員や公的資格者といった、日本国家若しくは国民から任じられた公の貸与者が弱り誤ってしまうと、全体への還元率が弱まり国内循環が滞る。氣や血、水の巡りがそれぞれ滞ると病となる。人にせよ社会文化にせよ地球にせよ変わりない。

 つまるところ、物を物として扱うとその特性を扱うことができるが活かすことはできず、人は物ではないので物として扱えば物以上に反発や疲弊の原因となり心も身体も壊れる。名医は人を人として接し、自ら疲れすぎない程度に処する。



時代を担う者へ

 私が謂わずとも先人たちや社会の重鎮たちがよく云っておられるので語るべくもないが、知らぬ者の一資となり福となれば幸いである。基本的に古書の方が手書きの時代であることから、一文字一文字に重さがあるのでできるだけ古い書を薦める。

修身修養

 この国や一サークルや家族の幸福を心から願うなら、先ずは自らを鍛えなければならない。自らを知らない者は移ろいやすいから四書五経あたりや修身修養あたりを基礎とすれば誤り少ない。書が読めぬなら日本の伝統文化たる和服や祭事、神社や寺、日本の武道などに多く触れると体感する。

 夫婦であれ親子であれ完全に解り合えることはないのだから、友人知人他人となると以ての外で、自らが自らの責任や信念を以て他者と対等に向き合わねばならない。日本国家では国民は法の下に平等であり、あらゆる宗教に於いても神の下にみな平等である。これらを誤って接すると自他公すべてに災禍を招く。法や平等を絵空事やただの理想と捉える者は向き合うことに疲れ諦めてしまった者で、その数が増えると社会的病となる。それに従うことは自由を諦めることに通じ、国家や法、宗教、科学、人間という存在など一切を否定することとなる。

他者というもの

 私がどのような軌跡を描いてきた何者であり、何を志しているかを知らず、人は見たいようにものを視る。私を実例に挙げれば、私に対して政治家になれとか研究者になれとかカウンセラーになれとか教師になれとか宗教家っぽくてヤダとかフォロワー数がない弱者だとか金持ちの道楽だとか周りと違うことをするなとか後輩力が足りないとかまぁ良くも悪くも色々言われたり思われたりする。
 どれほど私と他者との人間関係という縁深さがあり、私という人間の本末どこまでの範囲を捉え示しているかで言葉の意図も重みも変わる。人格者に言われるか、言葉尻を捉える者かの違いといったものだ。どちらにせよ私にとって縁があること変わりなく、ありがたいことでもあり、他者が勝手に助かるだけに過ぎないことでもある。

 自分の弱さを知る者は儚さを知っており、風の前の塵に等しいとも云うし、下天のうちを比べれば夢幻の如くなりとも云い、ただ一切は過ぎていくとも云う。私自身の見た目や精神、立場などがどのように変わっても良し悪し人は言い、劣等感ある者は他人のうちに自分自身の劣等感を求め見出し比べたがる。そのようなつまらぬことと、真面目に向き合おうとする家族や仲間たちや自らの理想の一歩一歩を考えることとどちらが価値あるだろうか。

 他者との接触は善意や劣等感、実直さに根差して接するなど多様で、その見識といった分別がつかぬうちは社会一般的接し方が無難であり、考えるより行動派の肝が据わっている者は数打ちゃ当たるように一切気にせず経験すればいい。
 陰陽混じりて太極と成すように、時が経つほどに恥や罪といった負債であろうとも、愛や培った努力といった純資産であろうとも、一切のことは自分しか持ち得ぬ資産となり、私の豊かな人格を形成する資となり師となる。

 普通や常識、世間、科学といったものはそれら普遍性から外れた者を避ける習性がある。故に一個性を有する私はそれらの者から避けられる対象となる。例えば子どもに没個性的であれと云うのは傷ついてほしくない切なる願いに基づいており、親のその願いは正しい。意志を持ち自律し個性的であれと云うのも正しい。その言動は何に根差し、私はその言動に対してどう向き合うかである。病や自ら死ぬ者が増えすぎている世の中を見ていると、現代の普通や常識などは間違い多いこと自明の理じゃないかね。

 他者は自らを映し出す鏡と言える。鏡はまず光が必要で、その次に透過度や角度がある。例えば赤色の光を以て鏡を見れば赤い自分が見える。日光であれば健康そうな自分が見える。透過度というのは鏡がくすんでいると少しぼやっとしていたり、はっきりとした自分が見える。角度というのは自分が真正面を向いていても鏡の角度によって能面の如く怖さや可愛さ、無頓着さなど見方が変わる。自分が真正面を向かず視界の端に捉える鏡に対して映る自分は、鏡が真正面を向いていてもやはり端であり、鏡が傾いていると端の端となる。割れた鏡は角度が歪で乱反射する。

 理想のカタチは自分も鏡も太陽光を以て真正面を向きはっきり見えることで、人工光源であったりくすんでいたり、角度がずれていたりすると少し誤解が生じる。自分も鏡も真正面を向いていない場合は必ず両者ともに誤る。誤ることが間違いではなく、人間は全知全能の神ではないのだから誤りを許容できるゆとりがなければならない。孫子の兵法を鏡に応用したもので、鏡の光は社会学で云うところの色眼鏡やレッテル張りにあたる。

結び

 現代はより明確さや理解、具体性といった鋭さに重きが置かれているが、鋭利な刃物ほどすぐ切れ味が落ち欠けやすい。経験や考え、理想、感じたことなどは個々人独自に有するものだから、その者独自の哲学となり信念となり、他者との接触を以て相交じり育ってゆく。万物そんなものだ。


紹介

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