故郷の街にて、わたしを書き出す。【8月20日の覚書】
育った街の駅に降り立った。
出口は西口、東口、南口。
家は西口の方にある。
よく使うバス停は南口、今日の用事は東口。
どの方面も互いに繋がり、簡単に行き来できるのが魅力的。
ここは、この沿線で県内一の繁華街。
かつて、他県のヤマンバ女子たちが原宿へ遊びに行く練習としてここを闊歩していた。
この地域には、何でもある。
いくつもの大型百貨店やショッピングモール、
美味しいものが並ぶデパ地下、
服、バッグ、アクセサリー、化粧品の煌びやかなショップ、
つい立ち寄りたくなる本屋とパン屋にドーナツ屋、
どこに入るか迷うほど数多の居酒屋、
オシャレすぎて値札を二度見してしまう100均、
県内有数の新学校と有名進学塾、
気象大学校、
日本最高学府のキャンパスの一部、
サッカーチーム。
この街の中だけで、充分楽しく暮らしてゆける。
高齢化だけが目立つのでなく、いつだって老若男女とファミリー層が賑やかに往来している。
住民の活気が満ちているから、行政の福祉は昔から充実している。
それがさらに、人を呼ぶ。
近年足りないのは火葬場の数。
先日たまたま目にしたニュースでそう紹介していた。
*
強烈な日差しが照り付けるコンコースを歩く。
立秋になりその気配が、と言いたくても、秋の空気は欠片も見つからない。
まだまだ夏色の空に向かって、子供の頃に大好きだったデパートがそびえたつ。
当時としてはかなりハイカラだったのだろう。
コンコースを広々と見渡せる、ガラス張りのエレベーターが2基。
このデパートの前を通りかかると、滑らかに上下するカゴと乗客がよく見えて、自分もあれに今すぐ乗りたいと羨んでいた。
そして、いざ母親と買い物にやってくると、喜び勇んでエレベーターホールへ駆け寄った。
この街の子供たちは、このエレベーターのおかげで、高い所から景色を眺める楽しさを知ったに違いない。
最上階は、ゆっ……くりと回転するレストラン。食事しながら街の景色を360度見渡せた。
家が貧しかったから、子供の頃に行くことはなかった。
初めて訪れたのは、平成末期のこと。
そんなシンボルタワーも、もう、なくなる。
もうだいぶ前に閉店し、解体工事が始まりつつある。
街のここかしこが、昔の面影を保ちながらのバージョンアップ。
変わってしまったことに、寂しさはない。
むしろ、地域の最先端をゆく姿を誇らしく思う。
二十年近く前に、わたしはここを離れた。
この街が嫌だったのはなく、都心での残業や飲み会の帰り道約1時間30分がだるすぎて、大人三人が暮らす狭すぎる家がストレスで、嫌気がさしたのだ。
歩きながら、この街で暮らしていた頃を振り返る。
そして、どこから何が捻じ曲がったのかを心の奥でひも解き直し、何度もなぞってるのにあらためて静かになぞる。
大学、厳密には学部。
そして、その先にある就職先。
大学の学部は確かにものすごく嫌だったけど、就職はこの街でしようと思えばできたのだ。実際、内定をもらっていたのだから。
どうしてあの人の見栄など重んじて、内定を辞退したのだろう。
だいたい、就職した職場だって、隣の地域の配置にしてくれたらよかったのに。わたしはそう希望したのに、どうしてわたしを都心のど真ん中に配置したのか。
学部は嫌でもこの街で働き暮らしていたら、少なくとも今住む街で長年違和感を抱き続けて生きることはなかった。
ただ、その反面、離れたからこそ手に入ったものもある。
もう、あの頃どうだったと言っても仕方ないことは、重々わかってはいる。
わかってるのに、なぞっては、なぞっても仕方ないことをしてしまう。
そうして振り返りつつ、再確認する。
わたしは、わたしを嫌いでないことを。
わたしの外見的なものはあらゆる方面ですべてが微妙でも、どんな環境でも自分なりに頑張ってきた内面は愛している。
この街で精いっぱい生きて、こんな道をゆくことになったわたしのことも愛している。
そして、この街も愛していた。
子供の頃、他の街への憧れを抱いたことは一度もない。
それくらい、自分の地盤を気に入っていたのだ。
最近は、この街の名前を見ると親の毒のことを連想してしまい、街にすら嫌悪を覚えることが度々だった。
空を見上げた。
ああ、ここにはちゃんと空がある。
やっぱり好きなのだ、
わたしはわたしの中身を愛しているし、
この街を愛しているのだ。
*
用事を済ませて、ランチ目的のカフェに入る。
書店と提携していて、手続すれば未購入の本を2冊までカフェに持ち込める。
読書が前提にあるカフェは、静かでいい。話してる人たちも、小さな声でマナーを守る。
他の人の学びの姿に、わたしも勉強しなければとほどよく気が引きしまる。
今暮らす街は些細なことにがっがりするけど、この街はこうして些細なしあわせがたくさん見つかる。
今日は、わたしが育ち、本当のわたしを選べなかったこの街で、この先どうやって生きようかとじっくり考える日。
ペンネを食べ終え、A4のノートを広げる。
10年ほど前、「書くことで引き寄せる方法」「叶ってほしいことを記した未来日記」を紹介するものを読み漁り、実際書いてみようとノートを何冊か購入した。
書いたことは書いた。10日くらいだろうか。
虚しくなってやめてしまった。
書いていたのは、恋愛関係のこと。
妄想に本気で入り浸って脳内の世界をひたすらしたためたら、現実になったのだろうか。
わたしの思い描いた世界は、あまりにハードルが高く無理筋で。
自分ではっきりそう感じながら書いていた。
そして、どこか空々しく書いても願いは叶うことはないだろうと悟って、やめてしまった。
その時のノートに、これからどうしたいかを綴り始めた。
最初は思うように文字が浮かばなかった。
書いているとだんだんと書き進めるコツをつかみ、気づけば手が追いつかないほど思考がぽろぽろとこぼれ始めた。
本当は何がしたかったのかを問い、
どういう自分になりたいのかを書く。
どうして今なっていないのかを書く。
じゃあ、その「なれない理由」を払拭にするにはどうしたらいいかを書く。
そんなことを繰り返して、何ページも書き進めた。
ただ願望を書き連ねるのではなく、今は叶っていない理由を洗い出し、実現までのロードマップを描き続けた。
わたしは、カッコいいわたしになりたい。
カッコいいと自分で思うわたしが好きだから。
どういうわたしがカッコいいのか。
それは、そこまでひどくない見た目で、好きな街や自然へ自由に行って気ままに歩き、書くことで収入を得てお金に困っていない自分、好きなことに納得のいくようにお金を払える自分。
漠然としているように見えるかもしれない。
ノートにはもうちょっと具体的に書いた。
伏線を考えてはダメなのだと悟った。
こうする、こうなる、というのが、「なる、叶えると決めること」にほかならない。
やってみて、どうしてもどうしても何かが違えばその時点で方向転換すればよい。
ダメならこうすればいいと最初から安易に設定するようでは、なる・叶えると決め切ったことにはならない。
きっと、「ダメになり、結局こうなる」と刻み込まれてしまうのだ。
今の風の時代では、堅実さが時には仇となる。
手で何かを書く行為に、思考が解放されて流れ出すことに、ドーパミンが放出したのか、気持ちよさを覚える。
ひととおり、思いが出そろったら、あらためて見返してまとめる。
これから、やりたいこと、叶えたいことがこんなにある。
叶えるためにやることがこんなにもある。
不思議とワクワクしてきた。
簡単にはワクワクできないわたしの心が、動いてきたのだ。
この先の人生が楽しみになった。
とりあえず10年スパンで考えればいい。
その先のことなんてわからない。
15年前のわたしは、今のわたしなんて想像もつかなかったのだから。
そして、この街に住みたい気持ちが浮かんだ。
こうして、本当の自分の声を簡単に聞くことができて、馴染みが深く、楽しいことがいっぱいの街が、やっぱり好きなのだ。
京都も大好きだけど、この街も好きだ。
二拠点で暮らす自分になりたい。
そんなことを考えて手書きでまとめて、さらに曼荼羅チャートを作った。
曼荼羅チャートは少し前に一度作ってみた。
その時書いたことをどれくらい実現したのかを確認すると、半分くらい。
それでも充分。作ったのはたった3ケ月くらい前なのだから。
実現できるのだ、やろうと思えば、やれることがほとんどなのだ。
そんなことを確認したら、希望ってやつが見えていた。
やっぱり、自分が本当はどうしたいのかを見てあげないとだめなんだ。
人に合わせて、溜息をついてあきらめているだけでは、これからを生きる楽しさなんて見つかりっこないのだ。
抑え込んで、心と能力を殺めていては、ダメなのだ。
なんだか異様にすがすがしい気分になった。
やりたいことをやって生きる。
そんなシンプルなことがどうしてできていなかったのか。
アンコンシャスの価値観やブロックの硬さをあらためて思い知り、その中で生きてきた自分がいじらしくて、あらためて愛おしくなった。
これまで支えてくれたものへの感謝は忘れずに、
これからのわたしを縛るものは手放して、
わたしを生きる。
それが、あと25年くらいで命が尽きるわたしの使命でいい。
何かを担うのが使命と思いたくても、それが何なのか、今のところ見つからないのだから。
人生、何があるかわからない。
そんな言葉を頼もしく感じ、
明日が来るのが楽しみになった、
2024年の8月20日。
ここ ↓ よりも、少し進めた感じ
ここまで御覧くださった皆様、
貴重なお時間ありがとうございました!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?