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1−8 深淵


クガちゃんは、所謂昔馴染みだ。仲は良かった筈。家族ぐるみの付き合いで小中高、同じ学校に通い、同じ美術部に在籍していた……らしい。彼女の口ぶりから察するに、そうだった筈、よく覚えていない。しかし奇妙な感覚だ。私たちはもう学生服の似合わない大人の女性、でもこうして肩を並べていると青い感性が再び発芽してくるのを感じる。ある程度の酔いが進んだ頃合い、クガちゃんは清涼感のある声で尋ねた。

「まだモネとか好きなの?」
「モネ?」
「モネの青、好きだったじゃん」
「嫌いだよ。モネの魅力は赤」
「……そっか、そうだったね。そうだった」

なんだか意味ありげな返答じゃないか。そういえば私たちはどんな青春時代を送ったっけ?その中身を何故か明瞭に思い出せない自分がいた。不透明な青い芽、輪郭の無い記憶……クガちゃんは続ける。

「最近何かあった?」
「何かって」
「哀しい事とか……もしくは、のめり込んでる事」
「どうしてそんなこと聞くの」
「早苗、あの頃と同じ顔してるから」

あの頃っていつの話だ?分からない。そういえば美術部には私とクガちゃんの他にもう一人の部員がいた。彼女はもういない。その顔も性格もよく思い出せない。『思い出すべきじゃ無い』ああ、また本能が何か言ってる。

「のめり込んでる事はあるよ」
「何?」
「秘密」

言う必要は無い。言って得することも何も無い。それが誰かの共感を得るもので無い事は分かってる。それに彼女も何か私に隠し事をしてる気がする。この程度の秘密、お相子だろう。

「早苗、私に相談できる事があったら言ってね」
「何で?」
「また何か、症状が出るかもしれないから」
「症状って何?私持病無いけど……何か記憶違いしてない?」
「記憶違いはしない。私は絶対忘れない。あんたの事も、あの頃の事も、希美の事も」

希美。あぁ、そうそう、それがもう一人の美術部員の名前だ、すっかり忘れていた……オエッ。急に強烈な吐き気を感じた。少し飲み過ぎたのだろうか?気分が悪い、退散しよう。

「そうだね、クガちゃんは全てを覚える人間だった」
「全てを忘れられない人間、かもね。どう取るかは自分次第」
「まあ、そうね。ちょっと、私はそろそろ、本当に明日早いから」
「忘れないでね、早苗。何か間違いを犯す前に、必ず相談して。私か、あんたのお姉さんに」

何でここで姉が出てくるんだ?分からない。ただ猛烈な吐き気だけが、私の身体を満たしていた。お代を置いて店を出て、人気の無い路地の横溝に思い切り吐き出した。不出来な吐瀉物に混じった半端な赤。足りない。コレじゃ無い。完璧な赤だ、私に必要なのは。完璧な赤が必要だ、私には、黒瀬花春の赤が。暗闇の中、誰かに見られてる気がした。闇を見やると、そこには誰もいなかった。不出来な赤だけが、私の深淵を覗いていた。



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