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1−9 無垢


黄金色の空、透き通る地平、亜麻の大地、何も無い世界。私の身体は……ある。訂正、私以外何も無い世界。奇妙な世界観だ、こんな画風の作家がいた気がする、誰だっけ?分からない。私が少しの頭を回すと藍色の雲が上空に孤を描いた。黄金色の空、藍色のドーナツ、透き通る地平、亜麻の大地、一つのカンバス……。

カンバス?カンバスだ。恐らくM12カンバス木枠側、その陰に隠れて丸椅子が一つ。私は怖気無く近づき、カンバスの表面を覗き込んでみる。それは一面の青だった。アクリルじゃ無い、恐らく顔料から溶かした青、イノセントな青。ルネサンス時代、青は高級な顔料だったらしい。時代が時代なら相当高価なこの一枚は現代において何の価値も見出せない。

「早苗、究極の芸術って何だと思う?」
「……何?」
「私思うんだ。究極の無垢こそが究極の芸術だって。そして究極の芸術は、全てを浄化する」

私は誰と話してるんだ?気付けば丸椅子に一人の少女が座っていた。その背中を見る限り、女学生だろう。左手にパレット、右手に筆を。少女は構わず続ける。

「神様は自分と同じ姿を象り人間を作った。何故だと思う?私が思うに『アダム』こそが、神様にとっての究極の芸術だったから。神様はきっと、浄化されたかったんだよ」
「希美、クリスチャンだっけ?」

そうだ、彼女の名前は希美だ。私の一番の親友だった彼女。気付けば私たちは教室の中にいた。風そよぐ、懐かしき思い出の地。

「全てを浄化された神様は、もはや神様じゃ無くなった。浄化されたからこそ、不浄が生まれた」
「何の話?」
「早苗、私思うんだ。究極の無垢に立ち会えたなら、その瞬間を逃しちゃいけない。そこを逃したら、不浄が生まれるから」
「だから、何の話?」
「私は究極の芸術を象った。そして私は固定した。その瞬間、私そのものが究極の芸術になったの。全てを浄化する究極の無垢に。早苗、あなたにとって」

振り向いた希美の顔は、真っ赤に塗りたくられた亜麻の面だった。カンバスからドロリと赤が溢れ出て、その色味が世界を満たしていく。「早苗、逃しちゃいけないよ。忘れないでね」赤に溺れた私は呼吸の仕方を忘れてしまった。息が出来ずに藻掻く私を、希美の赤が優しく抱きしめる。心地良い、同時に、恐ろしい。

そして私は帰還した。慟哭の目覚ましに慣れ親しんだ天井、ぐっしょり濡れたベッドに。発光する携帯を手に取ってみる。画面には黒瀬花春からのメッセージ。

『おはよう。一つクエスチョンです。早苗さんが思う究極の芸術とはなんですか?今度お見えする時、お教え頂けますと幸いです』

究極の芸術?なんだそれ。奇異な芸術家の考えることは不明だ。私は普段通り、ケトルを湧かし、朝食の支度を整えた。



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