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3−9 潜る赤の旅路


『黒の奪者よ
 箱庭の空を擡ぐ死よ
 嘆き呻く青き奪者よ
 死が燃えて空が青に溶ける日に
 君の心は黒の臓を掻き毟る』


 私は死に戯けて欲しくない。だから生に戯けるのだ。しかしそれは誤りだった。纏った道化の装束はいつしか私の皮膚になり、心の臓は風船と化した。空っぽの私、空虚な人生、虚空の心。最後に残されたのは私の器官。この血肉だけが、私に残された最後の無垢となった。
 誰も気付かない。筆を取り言葉を話す肉体が黒瀬花春だと疑わない。それは世界に象られた黒瀬花春の偶像で、本当の私はその皮膚の内側にある。私は誰にも見つけられず、黒瀬花春の役割に準じて虚な死に向い鈍行してゆく。それが芸術家黒瀬花春の人生、生に戯けた者の末路。でも私は見つけてもらった、一人の人間に、私の無垢を。柿崎早苗に。


『黒の奪者よ
 創生の諸原理の応対者よ
 恥辱と廃残の死骸よ
 死せる事物に命名がくだる日に
 君は事物としての生を襲名する』


 私は象ろうと思った。無垢な私を、一枚のカンバスに、この肉体を通して。神がアダムを象ったように、私は己の無垢の複製を創造する。神は何故アダムを象ったか?己の無垢だけを抽出したかったからだ。だからアダムに知恵を与えなかった。知恵は人間の無垢を汚すから。知恵は人間を神に変えるから。神は、己の無垢だけが欲しかったんだ。
 私は描く、己の血で、無垢な私を。詩作『潜る赤の旅路』一枚のカンバスに記した血文字、酵素も混ぜず、樹脂をも嫌う、私の複製。これから時間をかけて、私の最後の知恵、忌むべき道化の象徴であるこの詩を、私の赤で塗り潰していく。このカンバスの一面が真っ赤に染まるとき、私の究極の無垢が完成する。柿崎早苗の中で。
 究極の無垢の真の姿は、鑑賞者の身の内に現れる。私の無垢を見染めた父なる存在、そして私の無垢を宿す母なる存在、柿崎早苗の中に。それは彼女の記憶に混ざり、思想に溶け、心の海に根付くことになる。彼女の中で、私の無垢は永遠となり、柿崎早苗の中で本当の私は永遠の生を襲名する。
 私はこの作品の遍歴を、血で認めた赤い詩を、今の早苗さんに見て貰いたかった。必要不要関係なく、私の無垢の生まれる過程を共有したかったのだ。彼女にとって私は特別であり、私にとって彼女は特別な存在だから。出会うべくして出会う関係があるのなら、それはきっと私たちを指すのだろう。私は『潜る赤の旅路』を見やる早苗さんに素直な想いを告げる。「早苗さん、私に生きる希望をくれて、ありがとう」


『黒の奪者よ
 生理学に冒されし者よ
 事物脅迫者の冥府の臍よ
 脆弱な夜の横腹が裂ける日に
 君の陽は白けた月を洗い落とす』


「だから嫌いなんですよ、芸術家は。何でもかんでもアートに結びつけて、適当な御託並べて、自分勝手な畜生ばかり。反吐が出ますよ本当」

 早苗さんは『潜る赤の旅路』を前にそう言った。何故だろう、その顔は怒りに満ちて醜く引き攣っていた。

「いらないですよ、そんな糞みたいなアート。気持ち悪い、吐き気がする」

 早苗さんはイーゼルを蹴り飛ばした。私の無垢が薄汚れた床に転がった。早苗さんは私の無垢を踏み潰し、そして綺麗に微笑んだ。

「花春さん、浴室行きましょうよ。薬飲んで下さい」
「薬?」
「赤は薬の副作用なんでしょう?沢山飲んで下さい」
「何言ってるの?」
「夢だったんです。花春さんの赤で満ちたお風呂に浸かるのが」

 早苗さんの言葉を聞いた私は静かに笑っていた。恍惚に満ちていた。泣いていた。震えてもいた。絶望に悦びを見いだして。だって今の私の心は、人生で一番プリミティヴだ。だから私は潜る、赤の海に、暗く深く、誰の手も届かないところまで。そして、息が詰まった。

 『よろしい、黒の奪者よ
  箱庭に一輪の死を活けよ』



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