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【エッセイ】親友との思い出

稚拙な長文になりますが、親友Y・Sちゃんとの思い出を精一杯かきました。一人でも多くの方が読まれると嬉しく思います。

Yちゃんと初めてちゃんと出会ったのは、高校生活1日目だった。

『ちゃんと』と書いたのは、彼女とは中学3年生のときに同じ塾で、成績別クラスは彼女の方が上だったけれど、毎週土曜日に隣同士のクラスだったから、彼女とはきっと廊下や玄関などですれ違っていたに違いないからだ。

その塾の模試で、彼女は必ず毎回成績優秀者として上位に名前が載っていた。それに、彼女は珍しい苗字だった。だから、顔はわからないまでも、名前ははっきり覚えていたのだ。

「●●塾の難関コースに通っていたSさんだよね?」

「そうだけど」

「わたしは隣の土曜コースに1年間通っていたんだ」

もうその会話だけで彼女とは友達になっていた。塾の先生や塾内の有名塾生の共通の話題で盛り上がることができたからだ。

部活は、わたしが美術部志望からひょんなことから柔道部に所属し、それもたった3か月で退部してしまったが、彼女は3年間、部活をつづけた。

しかも、確か3つの部活を掛け持ちしていたと記憶する。

✅一つ目が『図書局』
『図書部』と部員は呼んでいたはずだ
読書家の彼女にぴったりだった

『図書室から本をたくさん借りた人ランキング』で、確か彼女は高校3年時に数か月で100~200冊借りていたと記憶する。2位以下を大きく引き離して断トツ1位だった。それのなにが凄いって、高校の図書室だけで数百冊だから、地元の図書館や書店で購入した本や自宅のある本を含めたら、とんでもない数の本を彼女は読破していた。ちなみに、あとで触れるが彼女は国立の大学を一般受験しているから、速読できたとはいえ多忙を極めていたはずだ。

✅二つ目の部活が『アニメーション研究部』
略して『アニ研』だ

これは同好会ではなく、れっきとした部活だった。少ないなりに予算もきとんと下りていた。

✅三つ目は『地学研究部』
略して『地研』

どういう経緯でそうなったのかはよく知らないが、アニ研に入っている人は地研にも入るのが『伝統』だったらしい。だから、地研だけでなく、アニ研も部活は地学研究室(理科実験室)で行われていた。どちらか一方の部活に入っている人は皆無だったと記憶する。

柔道部を早々に退部し帰宅部になったわたしだが、塾通いも習い事もやらず、その日の気分でいろんな部活に顔を出していた。辞めた柔道部、山岳部、生物研究部、……。

だから、彼女が入っていた部活のすべてをちょっとずつ垣間見ていた。といっても、アニメはドラえもんくらいしか知らなかったし、理科で選択したのは生物・化学・物理だったし、本は高校3年間1冊も読まなかった(!)が、どの部活の部員も優しく接してくれて、入部の勧誘さえしてくれた。部外者のわたしを部員にそれとなく繋げてくれたのが彼女だった。

彼女とは、高校2年でも同じクラスになったが、1年と2年で同じクラスになったのは彼女とだけだった。2年のときのクラスはそのまま3年に持ち越されるから、つまり、彼女とは高校3年間同じクラスだった。ちなみに、母校は成績別でクラス分けはしていない。都会の高校ではあり得ない措置だと思うが、田舎ではよくあることだった。そのために、母校全体がアットホームな雰囲気を醸し出していた。

自由な校風、ゆるすぎる校則、先輩後輩の縦の世界がない部活がほとんどだったが、まったくイジメがなかったわけではなかった。

なんとなくだけれどクラスカーストは存在していた。正義感が強い彼女は、イジメに加担することはもちろん一度もなかった。カースト上位だと勘違いしている男子生徒に彼女自身が標的にされそうになったときは、毅然とした態度でキッパリと「不快に感じている」とその男子生徒に怒りを伝えた。

また、高校1年のときに仲の良かった女子生徒Cちゃんが、家族・病気・学業・先生などの問題で、高校2年の半ばからずっと不登校になったときは、ずっと心の底から心配していた。それはその女性が2年遅れで高校を卒業し、海外の大学に進学したと聞いても変わらなかった。その女性が20代後半で亡くなったとき、彼女は大きくショックを受け「どうにか助けられなかったのか」と自責の念にもかられているようだった。それは一過性の感情ではなく、ずっとつづいた。

そのCちゃんを同じ学年で最後に見かけたのが、高校2年のときの修学旅行だった。

その修学旅行ではYちゃんと同じ班になって、観光を一緒にしたり、同じ部屋に泊まったりして、とにかくよくしゃべった。

何日目かの夜、ホテルに着くとYちゃんが青ざめていた。

「どうしよう!  1~2週間早く生理になっちゃったから、ナプキンを1枚も持ってない!」

外出許可時間はとうに過ぎていたから、コンビニに生理用ナプキンを買いにも行けなかった。女性教諭はいなくて、同行した看護師は部屋で休んでいるだろう。

「こんなんで良かったらどうぞ」

わたしは、小さなポーチにギュウギュウに詰めた15~20枚の普通の日用ナプキンを差し出した。

「助かる!  ありがとう!  でも、マキちゃんは?」

彼女は半泣き状態だった。

「絶対生理にならない時期だから大丈夫」

他人に対する気遣いや優しさは半端なく、学校の勉強はよくできて、地頭も良かった彼女だったが、たまにちょっと抜けていて、天然なところがあった。体育全般も苦手だった。

その完璧すぎないちょっと抜けたところが彼女の魅力の一つであり、憎めないキャラクターになっていたと思う。

高校3年生のとき、わたしの体調は絶不調で、出席日数は卒業ギリギリ、登校しても保健室で寝ていたりした。勉強もやる気がまったく起こらず、後で思えばちょっと鬱状態だったのだと思う。体調不良の原因は小麦粉摂取によるものだったが、それが判明するのは10年以上も先の話である。

だから、定期試験や模試の成績は散々で、偏差値は40もなかった。案の定、センター試験の成績も恐ろしく点数が低かったが、経済的に裕福な家庭ではなかったので私立大学は入学できなかった。だから、もちろん私立大学は願書さえださなかった。

センター試験の低得点を考えると国立大学の二次試験は受験しても無駄だったが、1年後の1浪時の受験を見据えて、予行演習的に国立大学を1つだけ受験しようと決めた。

偏差値50ちょっとの地方国立大学の理系の学科を選んだら、なんと同じ大学の文系学科をYちゃんも受験することがわかった。

YちゃんとYちゃんのご両親にも連絡し、Yちゃんと同じ寝台や特急の予約を母がとった。

受験する日の2日前の夜に二人で地元の駅を出発し、片道約10時間くらいかけて、受験前日の早朝に大学の近くに着いた。駅に見送りにきたYちゃんのご両親は想像以上に素敵な方々だった。

Yちゃんとは大学の下見に行ったり、外食をしたり、受験後には観光までした。観光はまるで二度目の修学旅行みたいで楽しかった。

1年後の大学受験の予行演習のつもりだったのに、わたしは彼女に完全におんぶに抱っこだった。彼女がいなければ、駅での乗り換えもできなかったかもしれないし、外食もできなかったかもしれないし、記念受験にもかかわらず緊張に押しつぶれていたかもしれない。自宅に帰って体重計に乗ると、2kg落ちていたのがそれを物語っていた。一人で受験しに行っていたら、一体いくつ体重が落ちていたのだろう。

わたしはもちろんのこと、彼女もその大学に落ちてしまい、さらに彼女は別の国公立の大学にもすべて落ちてしまった。

彼女の家はわたしの家よりもずっと裕福であったが、彼女には弟と妹がいた。

「弟と妹のためにも、お姉ちゃんが私大に入学や浪人をするわけにはいかない」

彼女は泣く泣く短大に進学した。その短大は彼女の学力を考えるとかなり下のレベルだったろう。

浪人生活に突入したわたしに対して、彼女は適度な距離を保ってくれた。頻繁に連絡をしてくるわけでもなく、かと言ってわたしの存在を忘れているわけではなかった。長い浪人生活が終わり、志望している大学や学科ではなかったが、どうにかこうにか進学を決めたとき、彼女に連絡すると喜んでくれた。

わたしが大学1年のとき、彼女は大学4年になっていた。彼女は難関国立大学に第3年次編入学していたのだ。編入したと初めて聞いたときは、私事のように嬉しかった。Yちゃんには自分の好きな勉強や研究を思い切りしてほしかったからだ。そのYちゃんのバイタリティに感化された。

「わたしも別の大学に編入する!」

いつだって彼女はわたしの数百歩先を歩いて、わたしの行く先を明るく照らしてくれたと思う。

とにかくいつだって『気遣いの人』だった。だれに対しても。それに、いつも明るかった。

「100社全滅。もう面接でどう答えたらいいかわからない。なにが正解がわからない。わたしという人間を全否定されているような気がする」

すっかり肌寒くなった秋、大学4年生になった彼女の弱音を電話で聞いた。彼女の弱音はそれが初めてだった。時代は超氷河期で、100社以上就活している学生は全国に大勢いた。

彼女はほんとうは大学院に内部進学したかったのだが、やはり、そこでも弟と妹の学費を考えてしまい、両親に言えなかったのだ。

その電話からほどなくして、彼女は有名企業の内定がでた。

その企業で彼女は実績をだして、主任になった。

20代後半のとき、彼女とわたしの帰省時期がたまたまかぶり、数年ぶりに彼女を含めた友人たちとでプチ同窓会になった。その席で、前述したCちゃんの死を知ったのである。

「死んでしまったら、故人にはなにも伝えられない。生きてるうちに『ありがとう』の感謝の言葉をたくさん伝えよう」

さらに、わたしが研究者になるべくもがき苦しみ、研究室内でイジメにも遭っていた暗黒時代、近くに友人がまったくいず孤独に拍車をかけたのだが、当時のYちゃんの勤務先が電車で1時間のところだったと、そのとき初めて知ったのだ。あのときそれを知っていればと思ったものだ。

「連絡は密にとったほうがいい。『助けて』って、ダメ元でも声をだしたほうがいい。案外仲間は近くにいるかもしれないのだから」

あの時期、同じ歳くらいの身近な人の死が相次いだ経験から、わたしたちは多くの教訓を得たはずだった。

でも、時間が経つと人はそれさえも億劫になってしまう。特に、わたしのような怠惰な人間は。

わたしは、研究者の道を断念し、30歳すぎにして生まれて初めて派遣社員でもアルバイトでもなく入社した。そのために引っ越しもした。ところが、その会社をわずか4ヶ月半で解雇されてしまう。原因は、理事長からのパワハラ・モラハラ・セクハラを拒否したからだ。

それでも、自分を責めた。

「自分にも否があったんじゃないのか?」
「他の人なら、もっと上手く立ち回れたんじゃないのか?」

絶望感に打ちひしがれ、もうどうしたものかと、まともな言葉にならない感情のままYちゃんにメールをした。すると、すぐに電話で話すことになった。

「わたしも解雇されたんだ」

「えっ?!」

Yちゃんは、有名企業を自主退職した後、もう一つの夢である教育の道に進むため、ある塾に講師として入社したのだ。その塾は、彼女が中高の6年間お世話になった塾と同じ系列だった。彼女はそのときの塾の先生方を尊敬していたのだ。

「入社してたった1ヶ月だよ。最初から1ヶ月で1名脱落させて、他の社員の気を引き締める予定だったみたい。その1名にわたしが選ばれたの」

親友だからかばうわけではないけれど、彼女は仕事ができない人間ではない。それだけはハッキリといえる。

「だから、今は教員採用試験の勉強してるの。それで、講習を受けるために京都のホテルに泊まってる。今から部屋に泊まりに来てもいいよ

貯金残高を考えると、さすがに京都まで行く気が起きなかったし、その体力もなかった。

「マキちゃんが地元に帰ってきたら、アルバイトだけど仕事を紹介できるよ

あのときのYちゃんの言葉にわたしはどれほど救われたかわからない。生きていられたのも、彼女のおかげといっても過言ではない。

さらに、その数日後、Yちゃんから段ボールいっぱいに地元の名産品が送られてきた。

(もう一度、立ち上がってみよう!)

残りの貯金残高と相談し、資格取得講座に通い、それから、約3か月後、再び働きはじめたのだ。

「マキちゃんを不当解雇したヤツ、ニュースに出てるね!  やったね!」

数年後、当時の理事長が、経理だとか権利だとかだと思うが、全国ニュースに取り上げられていた。Yちゃんはそれでわざわざ電話してきてくれたのだ。

でも、Yちゃんはあれから一度も教員採用試験に合格していなかった。当時の教員採用試験は、10倍20倍が当たり前だったのだ。

「もうやだ」

ある日、Yちゃんから電話がきて、電話口で泣き出した。彼女は人前では決して泣かない人だったのに。

「もう辛いよう。先生になりたいよう。アルバイト生活から卒業したいよう」

(Yちゃんには散々お世話になった。次はわたしが彼女を助ける番だ!)

でも、まともに就活した経験もなく、教員免許すら取得したわけではないわたしは、上手い言葉がなにも見つからなかった。

その電話の翌年だったと思う。Yちゃんはとうとう教員採用試験に合格したのだ。30代半ばになっていた。

「結婚しました。子どもが生まれます。教員は辞めました」

(先生を辞めた!?  ウソでしょ?)

さらに、数年経ち、30代後半に差し掛かっていた。あれほど先生に憧れ、苦労して教員採用試験に合格したのに彼女は教員を休職ではなく、自主退職していた。

旦那さんの転勤についていったのかもしれない。子どもを優先させたのかもしれない。いずれにせよ、苦渋の決断だっただろう。育休産休のための休職ではなく、退職を選んだのは、教員採用浪人をしている人に枠を譲ったのかもしれない。彼女自身がその苦しみを嫌というほど知っているからこそ。

「電話で話したいことがある」

今から約5年前、彼女からメールがきた。なんだか深刻そうな気がしたが、連日仕事が忙しかったわたしは

「ごめん。今帰ってきたばかりで、明日も朝から晩まで仕事で疲れていて話せない」

と断っていた。心も身体も余裕なんてありませんでした。いいえ、ちょっとウソをつきました。身体にはまだ少し余裕があったのです。その証拠に、休日には全国のライブ会場に足を運んでいたのですから。

そんな彼女への恩義を忘れたわたしにさえ、彼女は1年に1~2回くらいメールをくれました。

「関東で大きな地震があったけれど、大丈夫ですか?」

「コロナが東京で流行ってますね?  大丈夫ですか?」

「お体、大丈夫ですか?  ご自愛ください」

ずっとずっと、あのとき、電話で彼女がなにを話したがっているのか気にはなっていましたが、彼女にそれを聞くことはありませんでした。

「彼女が話したくなれば、またきっと話すだろう」

そう思ったのは、ほんとうであり、ウソでもあります。ほんとうのほんとうは恐かったのだと思います。なにか深刻な相談をされるのが。自分は散々Yちゃんに助けてもらったのにもかかわらず。

「公務員試験の氷河期枠にチャレンジしてるんだ。Yちゃんも(受けてみたら?)」

今から約1年前、教員を辞めてからずっと専業主婦だったYちゃんに公務員氷河期枠を提案してみました。

「わたしはいいや。マキちゃん、頑張ってね」

正直、驚きました。30代後半くらいまでのYちゃんなら、その手の話に乗ってきたどころか

「わたしもチャレンジしてるよ!  お互い頑張ろう!」

くらい言ってたはずです。だって、Yちゃんは、わたしが行く道の数百歩前を歩き、いつも明るく照らしていたのですから。

このときのメールのやり取りが、Yちゃんとの最期の会話になりました。

今年の3月に東北や関東を襲った津波を伴う地震のとき、彼女からわたしを心配するメールがくることはありませんでした。できるような状態ではなかったのだと思います。

3月28日、Yちゃん永眠。

翌日、地元の友人から、それを伝えるメールに気づいたのは、29日の深夜でした。気づくのに7時間くらいかかってしまいました。それで、田舎で行われた通夜も葬儀も間に合いませんでした。

(あんなに良い人がなんで?  あんなに優しい人が!  なんにも、なんにも恩を返せなかった)

子どもはまだ10歳前後くらいです。さぞかし心残りだったでしょう。

30日、仕事帰りの電車内で、マスク内の鼻はグジュグジュで、涙がボロボロでました。みんなスマホに夢中で、だれも気づいていないようでした。花粉症が流行っている時期なのも幸いでした。

こんなときでも、食欲は旺盛で、桜を見れば美しいと感じます。

「相変わらず、マキちゃんらしいね」

いつかのYちゃんからのメールの文言が聴こえた気がしました。

超氷河期世代

気遣い

正義感の強さ

身体が蝕まれたのかな?

めちゃくちゃ頑張ったね。

つらかったね。

楽しかったね。

今は安らかにお眠りください。

※  Yちゃんとの思い出の一部を載せました。追加していくかもしれません。

最後まで長文を読んでくださって、ありがとうございます。

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