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古代ローマの疫病 | 大帝国を襲った死の旋律:前編


前回に引き続き、今回も古代で起こった疫病の流行をテーマとして扱う。前回は古代エジプトを襲った結核を中心とする疫病についてを紹介した。今回は、タイトルの通り古代ローマで起こった疫病を主題とする。古代ローマでは様々な病が人々を苦しめていたが、中でも特に猛威を奮い、帝国を衰退にまで追いやった「天然痘」と「マラリア」を中心とした疫病の恐怖に迫っていく。本記事は前編と後編の二回に分け、前編は天然痘、後編はマラリアを扱う。

古代ローマ人は、細菌やウイルスなどの目に見えないものから被る病をどのような存在として認識し、受け止めていたのか。また、疫病の種類、感染ルートはどのようなものだったのか。そして、幾度も発生する疫病の流行の結果、彼らの世界はどのように変わっていったのか。同じ境遇にある今だからこそ、先人の歴史を紐解いていく。

まず古代においては、細菌やウイルスなどの目に見えない存在を媒介として感染するという認識に欠けていた。そのため、感染症によって発症する様々な要因を呪術的なものとして彼らは捉えていた。古代ギリシアの医師ヒポクラテスの著作からは、彼が感染症を空気から移るものと考えていたことが分かる。悪い空気が体内に入ることによって発症するということは何となく分かっていても、薬が存在しなかったため、具体的な対処方法がなく、結局は収束を祈る他なかった。また、古代においては現在見つかっている文字資料から窺うにハンセン病を除いては、感染者が意図的に隔離された例はないようである。それゆえ、感染者と同じ空間で過ごしたために、それがさらなる感染者を招き、状況を悪化させた。

ローマ時代にヒポクラテスの知識を継承した著名な医師にガレノスという人物がいる。ガレノスはマルクス・アウレリウス帝に仕えた医師で、帝国お抱えの名医ではあったが、疫病がどのように感染していくのかはよく分かっていなかった。そんな彼らでも空気の汚染の他、動物から移ることは何となく分かっていたようだ。

古代ローマの詩人ルクレティウスは、古代ギリシアの著述家トゥキュディデスが記したアテナイの疫病について、疫病が空気に漂っており、それが呼吸の際に吸い込まれて体内に入ると発病すると述べている。疫病の正体はよく分かっていないものの、感染の仕組みとしては、ほぼ的を射ている。

古代ローマの共和政末期から帝政初期に活躍した著述家マルクス・テレンティウス・ウァッロは、小さな生き物が人間の鼻及び口から体内に入ると病を発症すると述べている。また、特に沼地にそうした例が多いので、近づかないことを勧める他、そうした土地を売り払った方が病を避けられると記している。病に感染しやすい場所という認識があり、そうした場所を避けることで感染が回避できるという考えがあったことが窺える。同様に、1世紀半ばの医師アテナイオスも沼地の危険性を伝えている。

とはいえ、これは古代ローマの特権階級に属していたウァッロやアテナイオスだからこそ知っていた知識であり、ローマの一般庶民にどれだけこの知識が浸透していたかは定かではない。その他、ローマ帝国にはネロ帝に仕えたアレタイオスやトラヤヌス帝に仕えたアルキゲネス等がいたが、いずれも疫病に大しての効果的な療法は誰も見出せていない。

古代における最もたる病の改善術は、呪術だった。祈りを捧げることによって、神の力を借り、時に神の怒りを沈めることで患者の快復を願った。古代ギリシア・ローマの医療においては、原因の探究よりもその改善に重きを置いていた。そのため、病気を未然に防ぐことに繋がる感染経路、病のメカニズムについて探求する姿勢が稀薄だった。

古代ローマにおいては、大カトーが浄化剤を用いていた記録が残されている。浄化剤のレシピについては、ワインとキャベツを主とし、魚、カタツムリ、サソリをさらに混ぜたものだったという。ワインの殺菌効果やキャベツや魚の栄養価という面で身体に良さそうなものが含まれているが、カタツムやサソリは調理方法を間違えば逆にウイルス感染の脅威となるものであり、この浄化剤と信じられていたものの効果はさほど期待できない。

また、約70種類の素材からできた「テリアカ」と呼ばれる解毒剤がローマ帝国では重宝されていた。この解毒剤は、ネロ帝に仕えた医師アンドロマクスが発明したもので、マルクス・アウレリウス帝も都市が天然痘に襲われた際に使用したと言われている。このマルクス・アウレリウス帝の治世にローマ帝国を襲った天然痘は、古代ローマの歴史の中で最悪の事例だろう。パルティア遠征の勝利で165年に帰還した将軍アウィディウス・カッシウスの部隊の兵士らが感染し、帝都へと持ち込んでしまった。天然痘は飛沫感染するもので、2m距離が離れていても感染する強力なウイルスだった。この天然痘の大流行により、6000万人と見積もられているローマ帝国の人口の内、600万人が亡くなったという。人口比にして約10%に及ぶ人々が他界し、帝国は衰退の道を歩むこととなった。

「パクス・ロマーナ」と呼ばれる平和な時代と伝えられる五賢帝時代。ローマが繁栄を謳歌した幸福な時代と一般的に伝えられるが、実際は疫病が流行し、他民族の攻撃を受ける危機的状態に晒されていたわけである。この疫病の経緯と時代背景について、もう少し詳しく紹介してみよう。

マルクス・アウレリウス帝の治世である161年、ローマの支配下にあるアルメニア王国にかねてからの宿敵パルティア王国が侵攻した。かつてのアルメニアは、トルコ東部から現アルメニア及びアゼルバイジャンにまたがる広域の王国だった。トラヤヌス帝の治世下に行われた軍事遠征により、アルメニアはローマの属州として併合されたが、ハドリアヌス帝の治世下では統治が難しく、自治権を認めて保護国扱いとなっていた。このパルティアの侵攻を阻止すべく、マルクス・アウレリウス帝は義弟で共同統治帝のルキウス・ウェルスに軍を託し、その討伐に向かわせた。

ルキウス・ウェルスはシリア属州アンティオキアの駐留地に滞在し、彼の指揮下にあったアウィディウス・カッシウス将軍の部隊の活躍により、パルティアの撃退に成功した。ルキウス・ウェルスは166年に帝都ローマへの帰還を果たし、戦勝記念祭を執り行った。この勝利によって帝国には様々な戦利品がもたらされたが、これが悪夢の始まりだった。疫病を一緒にローマに持ち込んでいたのである。

165年に疫病はアシア属州スミュルナの都市ニシビスで確認された。そして、166年には帝都ローマに至った。アシア属州ミュシア出身の詩人アエリウス・アリスディスは、この疫病に感染した著名人であり、彼はこの疫病によって養子を亡くした。疫病の猛威は収まることを知らず、168年にはエジプト属州を始めとするローマ帝国の各属州にまで伝染した。同168年、マルクス・アウレリウス帝とルキウス・ウェルスは現オーストリアを拠点とするマルコマンニ族を撃退するため、北イタリアの都市アクィレイアに駐屯していた。だが、この都市も既に疫病の脅威に犯されていた。

帝政後期に編纂された歴代皇帝伝記集『ローマ皇帝群像』のマルクス・アウレリウス帝の伝記には、疫病が帝国中で蔓延し、荷車で運び出さなければならいほど遺骸で溢れていたと記されている。そのため、帝国は勝手な墓の造営を制限し、埋葬に関する厳しい法律を設けたという。疫病は平民や貴族にかかわらず、多くの人間を襲って死に至らしめたという内容が、「マルクス・アウレリウスの生涯 第13章」で述べられている。同資料のルキウス・ウェルスの伝記には、疫病の発生源はバビロニアであり、同地のアポロン神殿で一人の兵士が黄金の小箱を勝手に開けたことから起きた災いと「ウェルスの生涯 第8章」記されている。

この疫病に関する情報は帝政後期の文献にも見受けられ、上記で述べた地域の他、イタリア半島、ライン地方、ガリア属州などの広域に伝染したことが窺える。だが、後代の記述には疫病の症状に関する記述がない。後代の書は伝聞をまとめたに過ぎないため、仕方ないことではあるが、マルクス・アウレリウス帝の治世にリアルタイムで生きていた医師ガレノスが詳細を残してくれており、疫病の正体が天然痘だったことが窺える。

ガレノスはハドリアヌス帝の治世である129年にアシア属州ペルガモンで生まれ、162年に帝都ローマに赴いた。ローマ軍の遠征にも同行していたため、疫病を目の当たりにする機会があり、その治療にもあたった。168年のマルコマンニ戦争の際は、ローマの駐屯基地があったアクィレイアで医療班として活動し、169年にはコンモドゥス帝のかかりつけの医師として帝国を支えた。ガレノスは216 〜217年頃に死去したと見積もられており、ハドリアヌス帝からカラカラ帝の治世まで歴代の皇帝を支えた。

ガレノスは、この疫病の流行を恐れて帝都ローマから自身の故郷であるアシア属州ペルガモンに避難していた。だが、168年にマルクス・アウレリウス帝にアクィレイアに強制召喚された。アクィレイアでは兵士を始めとして多くの人間が天然痘で亡くなっていた。その後、マルクス・アウレリウス帝とルキウス・ウェルスの両皇帝は、最も感染が酷かったアクィレイアからローマに避難した。ガレノスはこのアクィレイアでの悲惨な状況を見て、収束までには非常に時間がかかるだろうと述べたという。

天然痘
天然痘は、天然痘ウイルスによって発症する感染症であり、熱病と身体全身に水痘(すいぼう)を伴う。1〜2週間程度の潜伏期間の後に発症する。感染経路は飛沫や接触によるものなので、このウイルスの潜伏期間が非常に厄介なものとなる。合併症として、敗血症、気管支肺炎、脳炎などを引き起こす可能性もある。

ラクダから人間に伝染した感染症であり、古代からエジプトやローマを始めとして、その存在が確認されている。日本でも文字資料から、少なくとも平安時代からその存在が確認されており、多くの人物がこれまでに命を落としている。

致死率は約20〜50%と見積もられており、非常に致死率が高い恐ろしいウイルスである。また、治癒しても「あばた」と呼ばれる瘢痕(はんこん)が身体に残り、感染者をその後の生活でも苦しめることとなる。日本では、江戸末期の長州藩士だった高杉晋作がその例である。彼は天然痘に感染後、運良く快復を果たしたが、後遺症として身体中にあばたが遺った。

1796年に英国の医師エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)がワクチンを開発したが、根絶宣言がなされた現在では発症の報告例もないため、ワクチンの投与は行われていない。

現在、1977年のソマリアの患者者を最後に天然痘は根絶されている。その後の発症報告は今もなく、1980年5月には「WHO」が天然痘の世界根絶宣言を発表した。だが、天然痘ウイルスは研究資料として、米国及び露国のウイルス研究所で厳重な体制でもって現代でも保管されている。ウイルスを根絶した現在でも、バイオテロの可能性などが危惧されている。


天然痘への耐性、治療法がなかったことが感染拡大の要因でもあるが、もうひとつの理由として交路の発達が挙げられる。ローマ帝国は、軍隊がスムーズに派遣できるよう街道の整備に力を入れていた。この交路は商人を始めとして多くの人間が使用していたため、感染が遠方にまで拡がってしまった。この大惨事に対して、マルクス・アウレリウス帝は打つ手立てがなく、結局、具体的な政策は何もしなかった。3世紀の軍人皇帝時代の皇帝たちも疫病で亡くなっており、古代ローマでは疫病が規模の大小はあれ、幾度も繰り返されていたことが分かる。

ローマでは、その長い歴史の中で幾度も疫病が繰り返された。だが、当時は疫病に対してのなす術がなく、各時代の統治者たちは収束を祈ることしかできなかった。あの賢明で有名な哲人皇帝マルクス・アウレリウスでさえ、疫病に対して何の対策・対応も施せなかったのである。


COVID-19(新型コロナウイルス)の世界的な流行は、人間の身体を蝕むに足らず、社会の仕組みにまで侵食し、人々を脅かしている。この状況下、私たちは先人の記憶から何かを学ぶことができるかもしれない。歴史は、人間の叡智の結晶である。そこには必ず、解決の糸口となる鍵が横たわっているのではないか。

To be continued...


Shelk 詩瑠久🦋


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