アジカン精神分析的レビュー『Wonder Future』/物語と轟音はシステムに抗えるか
8thアルバム『Wonder Future』(2015.05.27)
中村佑介のイラストが載っていない、ただ真っ白なジャケットにエンボス加工されたタイトル。明らかに今までとは一線を画すデザインで届けられたのはアジカン史上最もラウドなロック・アルバムである。『Wonder Future』はFoo Fightersのプライベートスタジオ「Studio 606」にてレコーディングの大半が敢行され、その成果として太く逞しいバンドサウンドを手に入れた。
セッションへ回帰した『ランドマーク』を皮切りに、サポートメンバーとの充実したツアー、横浜スタジアムでの10周年記念ライブ、後藤正文(Vo/Gt)のソロ活動本格化と複数の要因が重なって、今4人で鳴らすアルバムへと立ち戻るとてもシンプルな欲求に突き動かされた作品と言えるだろう。しかしそこに込められた意思は重い。なぜロックで物語を語る必要があったのか。
父なるロックに挑むこと
これまでアジカンが切り拓いてきた道は「あんなのロックじゃない」と言われ続けてきた先に延びていた。日本語の歌詞 × 4ピースでギターを中心としたバンドサウンド× 情緒的なメロディというアジカン印のロックをまっすぐに鳴らし続け、結果的に"邦楽ロック"というジャンルを巨大なものにした。
「ぼっち・ざ・ろっく!」を鑑賞した際のブログに、後藤はアジカンの成果として"いわゆるロックをある種の不良性から奪還したこと"を挙げている。スター然とした出で立ちや激しく華やかなステージングは似合わない。だからこそ普段着のままで鳴らす自分たちのロックを追求してきたのだと思う。
『Wonder Future』で試みたのは、ああいう風にはなれないと捉えていた"原理主義的なロック"へと挑もうとする姿勢だったと言えるだろう。精神分析的な見方をすると、幼児期の人間は父親に対して強い競争心/憧れを抱きながらも、次第に父にはなれないと判断することで自立していく。これはまさにアジカンがここまでに歩んだ道のりと言えるだろう。憧れの"父なるロック"とは違う形で成熟し、故郷のスタジアムを埋めるまでに支持を集めた。
その達成感の後に再び"父なるロック"と向き合うのは、バンドとしての宿命だったのかもしれない。父のようにではなく、自分自身として父と共にあろうとするように、アメリカのロック文脈へとアジカンの日本語のロックを合流させたいと考えたのだろう。こうした成熟した欲求はバンドの精神状態が安定したことの証左とも言える。アジカンはバンドとして復活したのだ。
集合的無意識に繋がる物語
このアルバムは「スタンダード」に端を発し、物語調の楽曲が多く並ぶ。大半がそうであるが特に3-9曲目では”いつなのかどこなのかも分からない架空の世界“が描かれていく。タイトルも「英題/邦題」という形式で統一されるなど、今までのアルバム全体でストーリーを作る形式は切り離された短編集のような作品に仕上がっている。
時に映画の世界観を引用したり、異国の風景を借りて描いた架空の物語であるが、どの曲もむしろ2015年の現実世界を捉えており、描写の面では過去作にはない容赦ない言葉選びが並んでいる。
こうした物語の枠組を借りて人間の社会をえぐり出すのはそれこそ神話を紡ぐ時代から行われてきたことだ。どんな時代、どんな世界においても共通して存在している認識があるからこそ、神話や教典は定着していく。これを精神分析家のユングは集合的無意識という言葉で現し、世界全体が共有しているフィーリングがあると考えた。『Wonder Future』はサウンドでルーツとしてロックサウンドを希求し、歌詞では集合的無意識に迫っていく。人間の根源にアプローチしていくアルバムなのだ。
芸術でシステムに抗う
このアルバムは「Easter/復活祭」で始まる。『マジックディスク』に収録された「イエス」ではアジカンを葬ることを宣言したが、『ランドマーク』でバンドとして肉体性を取り戻し、そしてロックの本流へと挑む『Winder Future』へと繋がりアジカンが復活を遂げたわけだが、それは原点回帰ではない。初期のような焦燥感でもなく、僕と君を通して世界を描くのでもなく、物語を通じて我々に語りかけているのが特徴的だ。
2曲目の「Little Lennon/小さなレノン」を実質の序章として、それ以降の“物語”の連なりへと導いていくわけだが、上の歌詞にも示される通りこのアルバムは一貫して現代社会に対する芸術=想像力による抵抗をメッセージとしているように思う。先述の「Catarpillar/芋虫」や「Winner and Loser/勝者と敗者」などは明確に資本主義への疑義を呈したものだし、「Prisonar Of Flame/額の中の囚人」ではキャプションだらけの美術館を嘆く。物語を通し、今を描いているのだ。
新自由主義が台頭した社会は全てに明快さが求められ、大量かつ即席の消費が当たり前になる。精神分析理論を用いる社会学者・樫村愛子は著書『ネオリベラリズムの精神分析』の中で現代社会を「象徴的なものにアクセスしない近代のシステム」と捉えた。象徴的なものとは”生産性“に拮抗するような生きていることそのものを示したり自己承認できたりする文化を指す。樫村は同著内で哲学者スティグレールが「象徴的な文化が貧困化すると、人々の尊厳に関わる固有性が失われていく」と述べていることを紹介している。
『Wonder Future』が鳴らしているのはまさにそうした社会への警鐘であろう。物語という言葉を用いた象徴的な芸術の形を取り、固有性に訴えかける激しいロックサウンドで身体ごと揺さぶっていく。様々な景色を飛びながら、最後に辿り着く「Opera Glasses/オペラグラス」では《街から街へと想いは連なって/網のように僕らの舞台を繋ぐんだろう》と歌う。どんな世界へも思いを馳せ、人間であることを強く鼓舞する轟音。芸術で社会に抗うという大義を果たすアルバムだ。
タイトル曲「ワンダーフューチャー/Wonder Future」で《旅の先にどんな結末が待っていたって/走り出してしまったんだな》と不確かな”終わり“への視線がある。このアルバム以降、アルバム全体で何かを”言い切る"ことは減り、リスナーにも自分たちにも問い掛ける作品が増えていく。これもまた、不確かな世界と向き合う表現者の精神が成熟へ向かっている証左だろう。そのように、活動のキャリアも年齢的にもベテランに差し掛かる頃合い。アジカンが次に選んだのは若き日に残してきた後悔を清算しに行くことだった。
次回レビュー→『ソルファ(2016)』(10月終盤更新予定)
【これまでのレビューはこちらから】
#音楽 #邦楽#ロック#バンド#ロックバンド#邦ロック#考察コラム#音楽コラム#エッセイ#コラム#ディスクレビュー#アルバムレビュー#asiankungfugeneration#アジカン#AKG#精神分析 #WonderFuture
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?