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自由だったはずの世界/ヨルゴス・ランティモス「哀れなるものたち」【映画感想】

ヨルゴス・ランティモス監督がアラスター・グレイの小説を映画化した「哀れなるものたち」。自殺した妊婦にその胎児の脳を移植した人造人間ベラ(エマ・ストーン)と、それを取り巻く男たちを描く奇怪な冒険譚である。

上の記事では原作小説の感想を書いており、どう映像化されているのかという期待を高めていた。実際、映画を観てみると登場人物のバックボーンを描くことを排したことによる寓話性の高まり、そして映像で見せることによるビビッドな感覚への訴えかけが素晴らしく、見事な映画化に思えた。以下、解釈や感想を述べていく。


超自我なき欲望

赤ん坊の脳を成人女性に移植するという手術の実現可能性はさておき、ベラの精神構造は明解だ。映画序盤の彼女には発達した成人に備わっているはずの超自我がない。超自我とは、生育過程の中で両親から教わった社会規範などが無意識下に取り入れられたもので、"良識ある社会"におけるルールの順守を司る。ベラは赤ん坊であるため超自我を取り入れていないのだ。

生まれたての赤ん坊は親が提供してくれた、何をせずとも欲望が満たされている世界にいる。しかし自分の身体の把握すらままならない赤ん坊は欲望を自らの手では満たせない。今、私自身が新生児の子育て中だからよく分かる。哺乳瓶と誤って自分の手を掴もうとするほどにこの世界を認識できてない。あくまで、親が保護する理想的な人工の世界の中で満たされるのだ。

人間の持つ快を求める根源的な欲望をイドと呼ぶが、このイドは赤ん坊の時期に最も強い(それが次第に抑制され、"良識ある社会"に馴染める)。イドが強い時期に赤ん坊が自力でできることは当然少ない。しかしベラは成人女性の肉体と感覚機能を持ち、自らの根源的な欲望を満たすため能動的に動くことができる。超自我というブレーキもない。欲望を満たす上で無双状態だ。

ベラとは、人間が諦めてきた根源的な欲望をこの世界で実現できてしまう超越的な存在だ。そんな彼女を見つめながら、我々は戻れるはずのない"自由だった世界"に焦がれてしまう。ベラが自由を謳歌する様を通し、我々は自由だったはずの世界をイメージする。そこに回帰することはできない、ならばこの身体と精神でいかに生きていくのか。我々はそれを本作に問われ続ける。


目で見ること

生後数ヶ月の赤ん坊は光しか見えない。これもまた子育ての実感から思うのだが、見えていなくとも赤ん坊は光のほうへ目を向ける。明るい、暗いというのは判別できるのだ。そう考えると映画の前半がモノクロで表現され、ある瞬間に生きる喜びが感覚として表現された瞬間にカラーへと移り変わるのは赤ん坊の世界認識の解像度が上がる様を反映しているのかもしれない。

ベラの脳と感覚器官/運動器官の成長の間に数段階の差があることが本作の面白みを生んでいる。実在の地名や場所が登場するがそれがファンタジックに表現されていたり、チャプターの変わり目にインパクトあるビジュアルが出たりすることとも繋がっているかもしれない。全てがビビッド、全てがカオスな世界を自らの足で闊歩していく姿が我々の根源的な好奇心をくすぐる。

しかし、成長するにつれ脳と感覚器官/運動器官の差はなくなる。欲望を満たす喜びには理由がついていくし、世界の正体をすれば今自分がいる場所が理想的なだと知っていく。映画の後半は人造人間ベラならではの展開というよりは極めて普遍的な、世界をその目で見て学ぶことの成長譚へと移りゆく。

望むことならばすべて叶えることができるという幻想と、どんなに立ち向かっても変えることのできない現実。全ての人間はこの断絶に苦しめられながら世界を生きていくわけだが、ベラも決して例外ではなかった。「哀れなるものたち」という題が、全ての人間を指していることは明白であろう。



ディズニープラスで観れる未来

ベラはそんな現実でも自らの選択によって人生を切り拓こうとする。超自我は周囲よりも緩く、イドは周囲よりも強い。そんな唯我独尊に生きるにはあまりに最適な無意識に突き動かされながら、意識的に自らのやりたいこと、達成したいことを遂行する映画後半のベラは、自由だったはずの世界に焦がれる我々を焚きつけ、断念していた欲望に火をつけていくのだ。

普通はこうあるべきだろう、ではなく、ベラはこうしたいからこうする、を体現する主体的な主人公像は勇壮である。本作がサーチライト・ピクチャーズの配給であり、いずれはディズニープラスで配信されることも加味するとこの主人公像は新たなプリンセスの誕生としても受け取れる。社会がどう、時代がどう、ではなく、私はこう。とてもタフなメッセージを受け取った。

またしても我が子の話になってしまうが、娘にもいつか偶発的に再生ボタンを押してほしいタイプの映画だと思った。R-18なのが惜しい。もっと早く観て欲しい。その時の彼女が(彼女と決めつけるのも良くないことだろうが)、何を欲しているかは分からないが、その気分を昂らせる作品であるのは間違いない。本作のエナジーが我が子を照らし出す未来、きっと楽しいと思う。


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