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【エッセイ】バットマンと、ニルヴァーナと、「線引き」の話。(他1篇)

 この世は「線引き」でできている。

 どれくらいのことまでを許せるか?どれくらいまでしても怒られないか?タイムリーな話題だと、どれくらいの経済制裁を行うか?などなど。

 線引きがあることで、僕らは「善悪」だったり「優劣」などといった、二項対立を作り出していて、そうやって世界は形作られている。


 この前、観て感想を描いた映画、『THE BATMAN』のメインテーマとして、90年代前半に活躍したアメリカのバンド、ニルヴァーナの"Something in the way"が予告編と本編、どちらにも使われていた。

 監督のマット・リーヴスがこの映画を作る際に強いインスピレーションを受けたそうで、ニルヴァーナのフロントマンのカート・コバーンとバットマンを重ね合わせたイメージが浮かんだという。つまりバットマン=ブルース・ウェインがカートのような退廃的で重苦しいロックスターのように写ったということであろう。納得。俺もそう思う


 では、ここで一つの疑問が浮かぶ。

 なぜ"Something in the way"なのか?ニルヴァーナといえば、"Smells Like Teen Sprits"が一般的であるというのに。

 この"Something in the way"の歌詞を引用してみよう。

Underneath the bridge
Tarp has sprung a leak 
And the animals I've trapped 
Have all become my pets
橋の下で
防水シートに水が漏れてきた
俺が捕まえた動物たちは、今ではみんな俺のペットだ

And I'm living off of grass 
And the drippings from the ceiling 
It's okay to eat fish
'Cause they don't have any feelings
草と天井から落ちてくる水滴でなんとか俺は生きてる
魚は食ったっていいんだ、あいつらには感情がないからな

Something in the way, mmm
Something in the way, yeah, mmm
何かが引っかかる
何かが心に引っかかるんだ
Nirvana: "Something in the way"

 この曲では「命の線引き」というものがテーマになっている。

 この曲はそもそもカートが「もし自分がホームレスになったら?」という妄想からはじまった曲である。橋の下で暮らし、そこで捕まえた動物たちはみなペットにしてしまう。つまり食べる意思は見せないのだ。曲中ではその理由として対比的に、「魚は食べるよ、だってあいつらは感情ないから」という理由を表明している。

 カートがこのようなことをそっくりそのまま思っていたとはとても考えられないが、この曲中のカートは「食べるもの・食べないもの」の線引きを、「感情があるもの・ないもの」という二項対立で捉えている。

 バットマンの映画でこの曲が使われたのは、これで理由が明らかになっただろう。劇中でブルースが揺れる「正義」と「悪」の境目。自分はゴッサムを救っているのか、それとも脅威になっているのか…?その二項対立を捉えるうえで、この曲である必要性は十二分にあったように感じる。


 ところで、僕はとてもじゃないが、このカートの考えについて良いか悪いかとは言えない。だって僕も同じようなことを思っているから。「牛とか豚は食べる。だって感情なさそうに見えるし」と心の奥で思っている。それと同時に「犬とか猫は食べないよ。だって喜怒哀楽あるしね」とも思っている。

 とは言っても、今から牧場と養豚場に行って牛と馬と交流して、もしも彼らにも感情があったということに気が付いても、またそれとは別の理由を探して彼らを食すことを正当化しようとするはずだ。つまりまた新たな線引きのラインを探してきてしまうのだ。

 僕はここまであまりに内省的になってしまったが、僕以外の多くの非ヴィーガンの人の多くが僕とは線引きの詳細は異なるにしろ、いろいろな理由をこじつけて独自に線引きしているのではないだろうか?



 この線引きは決して命だけの問題ではない。

 例えば、僕は浮気とか不倫みたいなものに人よりも強い嫌悪感を抱いてしまう。別に過去に恋人にされたとかそういうことではなくて、なぜか昔からそうなのである。だから多目的トイレのあの人がテレビに出てきて、面白いことを言っても、たぶん一生笑えないと思う。

 人を裏切るというだけでもある程度の嫌悪感を抱くが、それが性的なもの、いわゆるNTRみたいなものになると、心の奥深くから「気持ち悪い」と思ってしまい、怒りと不安の中間にいるある種の強い動揺に襲われる


 だから浮気や不倫を過去に一度でもしたことがある人は分け隔てなく苦手に思ってしまう。たとえその人がどれだけ自分によくしてくれていても。どうしても無理なのだ。

 だけど、僕の憧れの人には過去に不倫をしたことがある人が多い

 例えば、僕が生涯尊敬すると決めたロックスター、ジョン・レノンだって不倫をしたことがある。

 パブリックイメージではジョン・レノンの妻はオノ・ヨーコというのがもはや当たり前の通説になっているが、実は彼女の前に妻がいたことをどれくらいの人が知っているだろう?しかもオノ・ヨーコとの結婚が不倫によるものであることをどれくらいの人が知っているだろう?

https://www.vogue.co.jp/lifestyle/article/2020-09-15-doublefantasy

 僕はジョンのことを完全に神聖視しないようにしている。人間だからいろいろと問題点もあるだろうと思って。神聖視しがちなんだけどさ!

 ジョンは不倫をしていた。しかも妻も住んでいる家にヨーコを招いて。しかもそこで性行為を行っていた。しかも彼には当時年子の息子もいたのだ。だけど、ジョン・レノンのことは大好きだ。尊敬もしている。


 ジョンじゃなかったら、こんな男のことを好きになどなれていないだろう。本来の僕では虫唾が走るような「ロマンス」であるが、この二人のことはまったくそうは思わない。むしろ愛している。ジョンもヨーコも。

 なんなら彼がヨーコと出会っていなかったら数々のビートルズ後期やソロ活動でのラブソングの数々や、あの『イマジン』や、素晴らしい反戦活動の数々は起きえなかっただろう、と強く思う。こうやって正当化しようとしている。これはいいのか、悪いのか…


 人々はすべての物事、価値観を線引きで捉えている。

 聡明ではきはきとしているお茶の間の人気者と、お茶の間で嫌われているうさんくさいコメンテーターが、同じ慈善活動をしても、前者は「いや~やっぱり彼は偉大だ」と思われるだろうし、「なんかこいついつも世間に媚びばっかり売りやがって。生意気だ」とも思われるだろう。

 一方で後者は「どうせ売名だろ、わかってんだよ」と思われるだろうし、「へぇ~こいつって意外と人のために頑張るんだな、見直したぞ」とも思われるだろう。個人によって線引きは違う。だからこそ意見も違うのだ。


 線引きが物事のすべてを一切を決めているならば、僕らはそれを非常に慎重に行う必要がある。それを一度間違えると、すべてが崩壊してしまう恐れがある場合だってあるのだ。今、国際社会が重大な「線引き」の岐路に立たされている。僕らはどういう線引きをすべきか。ひとりひとりの決断が世界を変えることだってあるのだ。僕はそれを思い知って生きていきたい。ちょっと今回のエッセイのトピックとしては重過ぎる終わり方になってしまったのは重々承知だけど、強くそう思うのだ。

 また明日。

小金持ちの皆さん!恵んで恵んで!