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自分の力で生きたくて。


私にはA子という友人がいる。
彼女は様々な心の課題を抱えており、内面はとても繊細だ。
(以下、A子の繊細さを私なりにまとめてみたがメインの話ではないので、読み飛ばしても構わない)

「嫌われたくない」が根底にあるから、とにかく人当たりがいい。
本性を出すと嫌われるからと言って仮面を被り、常に孤独を抱えている。
それを打開する元気もない、と本人は言う。
朝を迎える度に落ち込んでいる。何のために生きているのか、と。
それでも死ねないから仕事をする必要はあり、仮面を被ってうまくやっている。というか業績に関してはめちゃくちゃに良い。
「その業績に自分の存在意義を見出して縋りついている」とA子は語る。この言葉からも彼女の思慮深さがなんとなく伝わるだろう。
精神は仕事に徐々に蝕まれ、職を転々としながら、薬でなんとか生活を回している。

繊細さを弱さだと言うのなら、たしかに彼女は弱い。打たれ弱い。
気が強いわけでもなく、自虐的だ。
自信もないし、立ち向かう勇敢さもないかもしれない。

しかし私から見れば、高校の途中で家を飛び出して今日まで一人生き抜いてきた彼女は強いように映る。
なぜ彼女の生き方が輝いてみえるのか、そこを見つめる中で私の人生観が浮き彫りになってきた。



私は家庭環境に恵まれた方だ。
愛情の話は置いておいて、何不自由なく進学先を選ばせてくれたことは恵まれていた。
成績も順調で勉強生活に何一つ疑問を抱かぬまま、医学部に入った。
志望動機に関して、当時色々と御託は並べていたものの、結局は「入れたから」という理由が大きい。
特に努力をしたわけでもなく、「家庭環境」と「勉学向きの脳みそ」だけで入学できてしまった。
そしてそのままスムーズに卒業した。

けれどずっと心の奥で感じてきたことがある。
私ができることのほとんどは家庭環境のおかげなのではないか。
私から勉強に関わることを除いた時、何も残らない気がする。
そして、勉強は家庭環境(つまりは親)のおかげなのだから、
私には自分の力がないのだ。

こう自虐的になると「医師免許を取れたのはあなたと周りの力どちらもあってこそだよ」と言ってくれる人もいる。
まあそれは理解はできる。
恵まれた家庭環境だからといって全員が同じ道を辿るわけでもないだろう。
理解はできるが、全然納得ができない。
というか、何より、胸を張れないのだ。
もうこれは心の問題で。
「医学部卒」と履歴書に書くだけでも苦しい。
できることなら知られたくない。
なぜならそれは親の七光りでしかなく、そこに縋りついてきた己の弱さを露呈させるものだからだ。
恐らく被害妄想なんだろうが、医学部と口にした途端に聞いた人の目が変わる。「あー別世界の人ね」「ドロップアウトしたの」「ぼんぼんだ」「なんで今やってないの」などと陰口を叩かれている気がしてならない。それは仕方がない。それだけ医学部卒という経歴にはパワーがある。
仕事探しで面接を受けるにしても、
「家庭環境のおかげだよね」「心に何か問題があるに違いない」「よほどやりたいことがあるんだろうな」「世の中舐めんなよ」「ぬるま湯に浸かってきたんだろうな」「勉強しかしてこなかったんでしょ」「これだから坊ちゃんは」などと心の中で思われている気がする。
学歴が高いことが、自分の弱さの証明となり、はっきりとコンプレックスになっている。このことは周りに言うと疎まれるので相談できない。
以前ある人の記事で、容姿に恵まれたことによる悩みを「贅沢な悩み」と一掃されるのがツラいと言っていた。それに似ている気がする。

話が逸れた。
そう。
とにかく医者をやるとなると、胸を張って「自分の人生だ」と言えないのだ。
そして私にとって胸を張れるかどうかはかなり重要なのだと思う。
一生胸を張れないまま人生を終えるくらいなら、生活が苦しくとも胸を張れる生き方をしたい。

これが医者をやらずにフリーターの道を選んだ大きな理由のひとつだ。


では現在、胸を張れる生き方ができているか。
うーん、、、。
実際昔よりは自分の人生に誇りを持てるようにはなってきた。
自分の足で歩んでいる感覚というか。
レールのない霧の中を彷徨っている感覚。
だけどまだまだ胸を張れない。
逃げてばかりだからだ。
フリーターをしていると言ったが、「このままじゃいけない」という感覚がずっとある。でも求人の中にしたい仕事は一つもないし(怖さとやりたくないがごちゃ混ぜになっているからだと思う)、就活やら面接を受ける勇気も一向に湧かない。
もう「就活アレルギー」になってしまっている。
今やっている職業は、(身バレしたくないというのもあるが)純粋にコンプレックスなので言いたくないほど。
そんな胸を張れない仕事を丸2年。
仕事に誇りを持っている人が輝いて見えて仕方がない。

後ろ盾を拒むまではよかったものの、結局今やっていることは、戦う勇気も出ず、悶々とフリーターの道に逃げ込んで抜け出せなくなっているに過ぎない。
社会の荒波に揉まれるように追い込めば強くなれると思っていたが、どうしても岸辺に上がってきてしまう。本当に弱い。


だからこそ、はじめの話に戻るが、仕事を転々として(結果的にかもしれないが)処世術が磨かれていっているA子が私の目には輝いて映る。
だって荒波の中で一人闘っているのだから。
それも、飽きたら好奇心が湧く仕事に乗り換えているのだから尚更だ。
偉い。偉すぎる。
それだけでもう強い。
尊敬する。かっこいい。


私は今後どうしていけばいいのか。

もう精神論では語れないほどに就活アレルギーが強くなってしまっているから、もう一旦就活のことを頭に置くのはやめようと最近は思っている。

このままではいけないと思う限りは、結論を出すべきではないと思うが、
少なくとも今できることは、岸辺でもできることをやり続けることだと思う。
つまりは書くことだろう。
あとは、気の合う人と巡り会うこと。
そのためにも書くのって大事だと思う。
だけど時たま思う。
文才の伴わない創作は現実逃避でしかないのではないか。
A子の言葉を借りるなら「創作に自分の存在意義を見出して縋りついている」のかもしれない。
けれども。
だからといってやることが変わるわけでもない。
純粋な自分の力でないと胸を張れない性格な上に、荒波に飛び込む勇気もないわけで。
答えを出したわけではないけれど、考えれば考えるほど自分の中での創作の立ち位置が宗教のごとく高くなっており、もう後がないのである。



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