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神に勝手に絶望する前に、己の願い方を反省すればいいのに…【理論編】

神が理不尽な力で条件に応じて人を救うのだとしたら、そんな不公正は神ではない。だから神の救済は無条件で理に適っていなくてはならない。無条件だが理に適っていることだけが条件なのだ。それを突き詰めていけば、どうすれば神の力に触れられるかはいずれわかるはずだ。求めればいずれたどり着く。

その求めこそ信仰だ。疑いを持たない信仰など何の価値もない。求めてもいないのに下ってきた教義に従う盲目など、理にも適っていないし、理不尽すぎる条件なのだ。一番、神から遠い在り方だ。だからそこにあるように見える救済が、救済であるわけもない。それはそれを受けている本人が一番知っている。

信仰の書物に書いてあることのすべてが間違ってはいないだろう。むしろ真実の側面を表しているからこそ、そこに意味を感じることができるのだ。例えばこうある。「神は自らを救うものを救う」。真実の全てではないが一面を捉えているだろう。腑に落ちるまで納得できればこれだけで力に変えられる。

ののしられたくらいで怒りのあまり罰を下すような神がいるわけがない。自分の定めに従わないくらいでへそを曲げるのが神であるわけがない。ただ、秩序でありながら無条件であることを保つための構造に限界があるから、それが神のご機嫌に見えるだけなのだ。だから、その構造がわかれば神の手が見える。




今回は理論だ。そしてここでいう構造については自然から学べと言うほかない。ただ、頭がいいだけでは決して理解できない。優しさ(への志向)が必須になる。なぜなら、大統一理論とは宇宙全体を含む理論であって、自分に都合のいい部分だけを取り出してわかった気になることではないからだ。そんな部分的で膨大な知識は短い人生の手慰みにしかならない。知識の全てであることで、一定の智慧であること、この理解だけが納得のキモだ。だから、やさしくなくてはならないし、やさしさをめざしているなら頭が悪くても内容を感じることができる。

さらに付け加えるなら、只より高いものはない、というのが真実の一面であることは確かだが、これを裏から見ると、知らない人はびっくりするようなことが導かれる。「無償の愛を提供することができる者がいるとしたら、それは誰よりも欲深い者である」。遺伝子の構造が自己犠牲を説明する、などというより、余程冒涜的ではないかと思うが、遺伝子の理論よりはその想いの本質を歪めない。なぜなら、なにより本人が自分の欲の深さを納得するだろうから。


自然を知るのであれば科学でも仏教でもいい。いちおう、神話の体よりは、科学や仏教のような因果論に基づく論理の方が現代人にはなじみがあるだろう。事実の羅列から真実を掘り当てるよりは、真実を直接記述しようとしたものの方が理解できる可能性は高い。そのうえで、矛盾を扱える論理学まで手を伸ばせれば、形而上学は手の内だ。

形而上学こそ神の論理である。ゆえに神を求めないなら形而上学は無用の長物だ。そして、形而上学が神の存在を保証するわけでもない。だからこそ、信仰は信じることを強いるものでなく、疑い続けた果てにどうしても残ってしまったものであり、それこそが宇宙全体を理不尽さも包括して覆っていることを示すだけだ。

これもまた、疑いのためのヒントに過ぎない。



さらに補足になるが、ほんとうのやさしさは、具体的に手を差し伸べることではなく、その人がその人自身の力に気がつけるように、ただその気づきをもたらすために手を貸すだけだ。それが神の御業なのだから、その支援を真剣に感じ取ろうとすることこそが信仰なのだ。そんなこともわからないまま、神は救ってくれないなど嘆くのは身勝手なのだ。

極端な話、誰かを救うということはその誰かが救われてほしくない人を救いから遠ざけることだ。それは不公平だ。奴隷を解放すれば奴隷の主人は損をするし、いじめを解消すればいじめていた方を糾弾してしまう。善や悪は神の基準にはないと気がつくべきなのだ。あるのは世界を維持するための構造を守ることだけだ。

実際にはそれすら守っているのではなく、その構造の中でしか、神すらも存在し続けることは不可能なだけだ。完全に無軌道な認識すら在りようもない無秩序をも神と呼べと言うなら、それも神ではあるから、これもまた、正確ではないのだが…。

不公正は対称性を損ない、その回復の機構を持たねば四散して崩壊する。だからこそ、全時間空間を束ねた時の対称性だけは絶対なのである。それがなければ現在を認識できる存在がありえない。ただ、非対称が具現化できたがゆえに偶然が生じ、さらには虚構まで生まれて、それらを扱う遊びまで現出した。これは宇宙の偉大なる発明だ。

神はもともと人格などではない。あるいは人格でしかない。非対称が限定的にせよ具現化したことによって、必然の中の偶然や、機械性の中の精神が構造化しただけなのだ。よってそこに至ってようやく発生した言葉が初めにあったというのも疑わしい。むしろその発生が目的で宇宙が世界となったというなら、初めにあったという記述自身が、実に形而上学的、つまり宇宙の本質を示しているともいえる。

間違っているともいえるし正しいともいえる。救わないことが救いであり、救われることで墜とされてしまう。世界を救おう、あるいは統べんとする欲するなら、それくらいは思い至らなければならない。人の間の英雄や勇者がそれをわからないままだと、貢献が大きいほど、手ひどく人類に裏切られて屈辱の最期を迎えるだろう。それが宇宙の力学なのだから、裏切りでもなんでもなく、それを裏切りとしか思えない自分の愚かさこそが自分を裏切っているのだ。

疑いにくいことをこそ疑えること、これが信仰の本質だ。「踏み絵」は迷いの末に、自分と世界のために踏んでしまえばいいのだ。踏んだ後もそれそのものを迷い続けるより、別の迷いを扱っていく。それが時を重ねるということの本質だ。迷いが自分自身だけをめぐるようになれば終末は近く、ゆえに始まりとも近い地点にいる。

「踏み絵」を踏まない場合は、時を重ねない選択になる。自分が神だと信じた地点の神の像を維持することになるのだから。敬虔ではあるが強情で融通が利かないということでもある。「踏み絵」を踏ませようとする大人びた幼稚さよりはもちろん進んではいるが、死んだらどうせ進む運命にある。つまり同じ障害を越えていく必要にぶち当たる。一度、避けた壁は何回も人生を費やさねば超えられないかもしれない。それも価値のある選択ではあるし、時代や地域によってはその役割は一定の需要があるから、それはそれでいいのだが。



重ねて言うことになるが、信仰は自分が決めることだ。その前提に立つからこそ信仰は疑いと等価になる。理論を受け入れるだけの科学者の疑いは弱い。ゆえに科学への信仰もまた薄く、実は簡単に崩せる。崩したところを見せるまでもない。それに見たくない人は見ないですむようにして世界は設計しておかないと(あるいは集団の認識は簡単には変動しないようにしておかないと)、簡単にパニックが起きて世界が崩壊する。

これは世界同士の淘汰原理だ。(原理が一つだと、危機に際して操縦やテコ入れができないことも淘汰の過程で示されたので、そこも工夫された世界が生存している。)

信じるを探して疑っていることを続けていると、駆け足で高みとか深淵へ行ってしまう。頂や底はあるのか。もしかして頂と底こそがつながっているのか。そして、高く深いところほど横の広がりが限定される分、判断材料が減り、それ以上の移動が困難になっていく。

最終的には自分の全ての中から、どの自分を信じるかの選択すら迫られる。そう言った認識の深さが楽しく感じるときもあるだろうし、裏目に出ることもある。得か損かで考えて得になることもあれば、それが決定的に損失になることもある。

とはいえ、可能性的に高い方がわかることもある。どうせ自分が今いる地点で一番目標にしたいことを目指して歩くしかない。その目標の向こうが霧に包まれた気高い山脈だとしても、そこまで行かねばわからないのだから。そして山脈の向こう側に憧れを抱くのもなかなか激しく難しい。そちらからの来訪者が山脈の手前の人の憧れを抱かせるように体現しているとも限らない。

そういうのがどうにせよ、目標の先にさらに目標があると気がつくためにも、目標に向けて歩かねばならないし、そこを一時の終の棲家とするにも、そこで単に休憩をはさむにも、落ち着ける場所は必要だったり、そうでなかったりもする。

こうした縦の地図は横に広がりすぎた世界では、存在密度が低すぎて手に入ることは少ない。



自ら辿り着く力を確信する者にとっては毒となるだろうが、以下はあえて記す。嫌な予感を覚えるならけっして読まないこと。とはいえ、大したことが書いてあるわけでもない。ピンポイントで攻略法になるのが嫌なだけだ。

神は創造者であると同時に、被造物の全てでもあることを忘れてはいけない。全てを救うためには何も救わないのは当然なのだ。それでも、自らが何者であるかを思い出すことことは、1少なくとも自分の救いにはなる。そのときに自分と世界の全てが分かちがたくつながっていることを実感すれば、なぜ神が自分の感じる不条理を救わないのかも理解できて、その不条理すら解消するだろう。

そういう長い長い物語が、何度も人類が滅び、星が生まれ変わっても続いている。それが宇宙全体を構成し、宇宙の寿命の長さだけ続く。それが人の人生の最初から最後なのである。どの地点で立ち止まってもいいのだ。だが、道半ばである以上は最後まで歩み切らねばならない。宇宙、すなわち神のなした理不尽があるとすれば、まさしくそれだろう。

その理不尽を扱っているときには神と一体化する。その視点で世界に在るなら、何をしていても意味しかないだろう。最大の理不尽が、その他の理不尽を楽しめることの総和であることに思い至る。ここに至れた時に身に宿す崇高さこそ、世界になった目的だったと言われても納得してしまうかもしれない。


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