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14.2.6 アメリカ合衆国の繁栄 世界史の教科書を最初から最後まで

第一次世界大戦の間、アメリカ合衆国政府に強い影響力をもつ金融資本(J.P.モルガン)は、積極的に協商国(連合国)のイギリス・フランスをサポート。

“勝ち組”のイギリス(180億ドル)やフランス(60億ドル)の軍需物資を立て替えたり、戦債を発行して巨額の資金を貸し出したりした。



これにより大きな利益をあげたアメリカは、戦後になると「海外から受け取るお金」が「海外に出て行くお金」を上回る「債権国」(さいけんこく)となる。
戦前には、その真逆の「債務国」(さいむこく)であったにもかかわらずだ。

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ありあまる資金が流れ込むようになると、アメリカ合衆国の金融機関は、そのマネーの貸し出しに励ように。

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「戦争」の季節が終わり、「経済」の季節がはじまった。

不穏な空気のただよう戦後ヨーロッパを尻目に、「もうヨーロッパのゴタゴタに巻き込まれたくない」というムードが高まった。
以前の孤立主義的(【←戻る】11.3.2 アメリカ合衆国の領土拡大)な雰囲気への揺り戻しだ。

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自国の経済を守るため、アメリカ合衆国は海外から安い製品が入ってこないように、海外の製品には高い関税がかけられた(高関税政策)。



その一方、イギリスとフランスがアメリカ合衆国から借りた資金の返還を「免除してほしい」と申し出たのに対し「ダメ」と回答。
これが、戦後ヨーロッパの経済復興を遅らせる一因となった。

あくまで自国ファーストの考え方だ。

(注)1920年代後半になると、協商国によってドイツに課された莫大な賠償金が、アメリカ合衆国の銀行家の調停(ドーズ案ヤング案)により解決の道筋が立ったことで、ヨーロッパの経済復興は軌道に乗って行くことになった。



アメリカ合衆国の国内では、ほかの欧米諸国と同様、大戦中多くの女性が軍需工場などで労働に従事。銃後から前線の兵士をバックアップした。


その“リターン”として、1920年に女性に参政権がみとめられることに。
多くの犠牲をともなう戦争が、民主主義の基礎を拡大するきっかけになるとは皮肉だね。

ウィルソンと女性参政権(1918年9月の演説)

この戦争は国民の戦争であり、女性たちの役割は戦争のまさに心臓部である。女性参政権を認める憲法修正条項の可決は、戦時措置として大変重要であるし、戦争の勝利にとっても重要なのである。

原文:This war could not have-been fought, either by the other nations engaged or by America, if it had not been for the services of the. women,-services rendered in every sphere,-not merely in the -fields of effort 'in which we have been accustomed to see them work, but wherever men have worked and upon the very skirts and edges of the battle itself. We shall not only be distrusted but shall deserve to be distrusted if we do not enfranchise them with the fullest possible enfranchisement, as it is now certain that the other great free nations will enfranchise them. We cannot isolate our thought or our action in such a matter from the thought of the rest of the world. We must either conform or deliberately reject what they propose and resign the leadership of liberal minds to others. The women of America are too noble and too intelligent and too devoted to be slackers. whether you give or withhold this thing that is mere justice; but I know the magic it will work in their' thoughts and spirits if you give it them. I propose it as I would propose to admit soldiers to the suffrage, the men fighting in the field for our liberties and the liberties of the world, were they excluded. The tasks of the women lie at the very heart of the war; and I know how much stronger that heart will beat if you do this just thing and show our women that you trust them as much as you in fact and of necessity depend upon them.(https://www.senate.gov/artandhistory/history/resources/pdf/WilsonSpeech1918.pdf)「女性たちの仕事は、まさに戦争の核心に関わるものです。
もし、あなたがこのようなことを行い、女性たちを信頼していることを示せば、その心臓はどれほど強く鼓動することでしょう。
もし、あなたがこのような正しいことを行い、あなたが女性たちを信頼していることを示し、あなたが女性たちに事実上、必然的に依存していることを示せば、その心臓はどれほど強く鼓動することか。
そして、もしあなたがこのような正当なことを行い、私たちの女性たちに、あなたが事実上、必然的に彼女たちに依存しているのと同じくらい、彼女たちを信頼していることを示せば、その心はどれほど強くなることでしょう。」


1921年からはハーディング(1865〜1923年、在任1921〜23年)、クーリッジ(1872〜1933年、在任1923〜29年)、

フーヴァー(1874〜1964年、在任1929〜33年)

の3代連続12年にわたる共和党の政権がつづき、「国は民間の経済に口出ししない。自由な競争が第一」という自由放任政策がとられた。



そんな中、1920年代のアメリカ合衆国の経済は「永遠の繁栄」を謳歌(おうか)。

「アメリカっぽいなあ〜」というもののルーツは大体この時代にできあがっている。

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ハリウッド映画、


ディズニーのアニメーション映画、

コカ・コーラ、


アフリカ音楽の裏打ちのリズムと、欧米の音楽の楽器・理論が融合してできた即興演奏を特徴とするジャズ音楽



フォード車に代表される“アメ車”の大量生産や、

家庭電化製品の普及によって、大量生産・大量消費・大量廃棄の社会が形成されたのも、この時期にあたる。



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)ヘンリー・フォードはアイルランド系移民の子。エジソン電気会社のエンジニアであった時期に自動車エンジンの開発をスタートし、1896年に成功。フォードT型車は、フォード車が初期に製造した大衆向けのモデルだ。
フォードは一気にひとつの車を組み立てるのではなく、全工程を細分化し、ひとつひとつの工程を“流れ作業”でつなぐ方式をとった。こうすれば、単純作業で車をつくることができるので、労働コストも削減でき、価格も下げることができる。1908年に発売されてから約20年間でなんと1500万台も販売するヒット商品となり、「車社会」アメリカのシンボルとなった(車社会化のことをモータリゼーションという)。


人々はラジオや映画を通して、同じ情報を一度に受け取り、スタジアムには有名スター選手の活躍を観戦しに多くの人手が動員された。


大勢の人が同じニュースに夢中になっては飽き、熱中しては忘れ去られていった。
「狂騒の20年代」と呼ばれるこの時代、戦後の“開放感” と “虚脱感” もあいまって、あたらしい時代の “スター” が次々と生まれては消えていった。


しかし、同時にこの時代は伝統的な白人中心の価値観が強調された時期でもある。
アメリカは「移民」や「奴隷」によって成り立ってきた国だから、さまざまな民族がいるのは当たり前なんだけれど、この時期にはイングランドからの最初期の移民「アングロサクソン系」で「プロテスタント」の白人(ワスプWASP)こそが、“本当のアメリカ人”だと主張する“狭い見方”をする人が増えていたんだ。

1917年にロシアで革命が起きたことから「共産主義者なんじゃないか」と疑われたスラヴ人系の人々や、ロシアなど東欧に多いユダヤ人が差別を受けた。
また、第一次世界大戦で敵国であったドイツ人や、低賃金労働者として働くことを余儀なくされていたアイルランド人やイタリア人も差別の対象となった。


イタリア系移民のサッコとヴァンゼッティが、強盗殺人事件の冤罪により死刑を求刑された。世界的な反対運動が起きたが、1927年に死刑は執行された。
サッコは1908年にアメリカにわたり、靴職人となり、思想的にはアナーキストだった。同じくイタリア移民のヴァンゼッティもイタリア移民のアナーキストで、2人とも第一次世界大戦では徴兵を拒否していた。2人は1920年に逮捕され、明らかな冤罪にもかかわらず、1921年に有罪を宣告された。マサチューセッツ州知事が2人の無実と名誉回復を表明したのは、処刑から50年経った後のことである。この絵はベン・シャーンによる作品《サッコとヴァンゼッティの受難》(1931〜32年)。



そして何より、黒人への差別はハンパない。
あからさまな黒人差別が続き、特に南部ではさまざまな権利が奪われたまま。
白人至上主義者(白人がナンバーワンだという考えを持つ人)のグループであるクー=クラックス=クラン(KKK)もメンバーを急増させ、黒人へのリンチや過激なパフォーマンスが注目された。


また、「伝統的なプロテスタントの価値観では、お酒などもってのほか」と、各州で禁酒法が制定された。取締りなどできるはずもなく、闇マーケットで酒が出回ったおかげで、かえってギャングたちの資金源を増やす結果となった。

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1924年には移民法が成立し、東ヨーロッパや南ヨーロッパ系の人々が制限。
「アメリカ合衆国は、アングロ=サクソン系のプロテスタントの国だ!」という価値観が強調されるあまり、スラヴ人やユダヤ人の人々が差別の対象となったわけだ。

このときの移民法では、日本を含むアジア系移民も規制の対象となり、日本とアメリカ合衆国の関係に暗い影を落とすことになっていくよ。





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