11.3.2 アメリカ合衆国の領土拡大 世界史の教科書を最初から最後まで
18世紀末にイギリスの北アメリカにある13の植民地は、アメリカ合衆国(the USA)という独立した国となった。
しかし、「もともと別個に自治権をもっていた「植民地」を、どうやって国としてまとめるべきか?」をめぐり2つの意見が対立。
「イギリスなどヨーロッパ諸国に対抗するには、ひとつひとつの元・植民地(ステイト)では対処しきれないことが多すぎる。だから13のステイトの“まとめ役”である連邦政府に強い権限を与えるべきだ。そうしなければ、バラバラになってしまい、せっかくの独立もパーになってしまうじゃないか」と考えるのが「連邦派」。
「いやいや、個々のステイト(州)は、どうやって設立されたかもふくめバラバラだ。個々のステイト(州)の権限を強く残したままのほうがいいと考えるのが「州権派」だ。
結局、1800年に「中央政府の力を強めすぎないほうがいい」という主張(反連邦派)をとるジェファソンが大統領に当選。1801年に就任した。
その際、内戦が勃発することもなく、敵対する二つの政党が選挙の結果に納得。アメリカ合衆国の政治体制の“成功の証明”とされたよ。
ジェファソン大統領は、1800年にスペイン領からフランス領となっていたミシシッピ川よりも西部のインディアンの住むエリア(もともとフランスの植民地だったルイジアナ西部)を獲得。
領土を一気に倍増させた。
さらに、1819年にはブルボン家の支配するスペイン王国からフロリダも買収。
その地のインディアンであるセミノール人との熾烈な戦争は、アメリカの圧倒的な勝利に終わった。
しかし、拡大し始めたアメリカにも暗雲が立ち込めることに。
ナポレオンの支配するフランスがイギリスと戦争を始めたため、態度を迫られたのだ。
ワシントン以来の“伝統”に従い、「中立」を表明していたアメリカ合衆国だったのだが、フランスとの接触をおそれたイギリスは、海上封鎖でアメリカ合衆国とヨーロッパ諸国との通商ルートを妨害。
これをきっかけに、もう一度イギリスと戦争することになった。
これをアメリカ=イギリス戦争(米英戦争、1812〜1814年)というよ。
ヨーロッパがナポレオン戦争真っ只中で起きたこの戦争では、イギリスからの工業製品の輸入がストップ。逆にアメリカ合衆国自体が工業化するきっかけとなった。
「政治的」な独立がアメリカ独立戦争で達成されたとすると、「経済的」な独立はアメリカ=イギリス戦争で達せられたのだという見方もある。
だからこの戦争のことを「第二次独立戦争」とも言うんだ。
とはいえ、「アメリカ人」としての意識や工業化のすすんだのは北部だけ。
南部では、イギリスの文化も色濃く、綿花の輸出と、イギリスの工業製品の購入を通したイギリスとのつながりが、まだまだ色濃かった。
さて、ナポレオンがセントヘレナ島に流された後、ヨーロッパ諸国は「大国同士のバランスによって平和を保つ体制」(列強体制)になった。
それに対して、アメリカ合衆国の政権は「うちはヨーロッパとは違うで」と、毅然とした対応をとり続ける。
たとえば、ヨーロッパの秩序の頂点にあったオーストリアのメッテルニヒ首相が、「南北アメリカ大陸のスペイン・ポルトガル植民地(ラテンアメリカ)の独立運動をなんとしてでも阻止する! 自由を求める動きや民族ごとにまとまろうといった有害な考え方は断固としてゆるさない」と、独立運動に介入しようとしたときも、第5代大統領モンロー大統領(1758〜1831年、在任1817〜25年)は1823年に「ここはアメリカです。関わらないでください」と主張。
「アメリカ合衆国も、ヨーロッパの政治体制には関わりませんから、そっちも文句言うな」でという内容だ。
モンロー大統領はこれを議会に向けた政策文書(教書(きょうしょ))の中で発表。これをモンロー教書(モンロー宣言)という。
ヨーロッパとのゴタゴタがいったん落ち着くと、第7代のジャクソン大統領(1767〜1845年、在任1829〜37年)が西部の開拓を推進。ジャクソン自身も西部出身者であり、農民や都市の収入の低い人々を大切にする政策をとった。
具体的には、選挙権から「持っている財産による制限」の項目をとりのぞき、すべての白人男性選挙権をあたえることにしたのだ(ジャクソンの民主主義、すなわちジャクソニアン=デモクラシーと呼ばれるよ)。
1832年にイギリスでも選挙法の改正がおこなわれているけれど、ここではまだ労働者に選挙権は与えられていなかったことを考えると、かなり進んだ改革だったといえるね。
ジャクソン大統領はまた、大統領選挙の勝利に貢献した人に連邦政府の官職をあたえるしくみをつくった(猟官制という)。つまり、次に別の大統領が当選したら、連邦政府のスタッフは入れ替わる可能性があるということだ。このしくみはその後現代にいたるまで受け継がれているよ。
こうした改革を受け、ジャクソンはアメリカ合衆国の南部の人々の指示を受け「民主党」(デモクラティック=パーティー)の結成を促進。
アメリカ合衆国北部の企業家などをおもな支持基盤とするホイッグ派(中央政府の権限を強くしようとする連邦派というグループから発展)と対決するようになった。
しかし、西部に進出するということは、そこに住む多くのインディアン諸民族との戦争を意味した。
ジャクソン大統領は、先住民の抵抗をおさえ、決められた土地(ミシシッピ川よりも西側にある「保留地」という場所)へと積極的に強制移住させた。その中で、強制移住の途中で4000人の死者を出したチェロキー人のような悲劇も生んでいる(チェロキー人の強制移住ルートは「涙の旅路」と呼ばれ、語り継がれた)。
アメリカ合衆国の白人の西部への移住は、1840年代にさらに拡大。
「西部を開拓することは、神から与えられた使命なのだ」とする説が、建国当初からキリスト教への信仰の暑かったアメリカ合衆国の人々の心をとらえるようになった。
この説は「(アメリカ合衆国は神から与えられた土地であるというのは)明白な天命(マニフェスト=ディスティニー)」だと主張する雑誌の記事をルーツとして、「明白な天命」説という。
その延長線上で、1820年代に植民地生まれのスペイン系白人を中心にスペインから独立していた「メキシコ合衆国」と、アメリカ人との国境紛争が勃発。
労働力不足を補うために移民の受け入れを進めたメキシコの政策を逆手にとって、テキサス地方に移住したアメリカ人たちが、「テキサス共和国」の建国を宣言。
この独立戦争のときに大きな犠牲を出したアラモの戦いのエピソードは、その後もアメリカ人の “民族魂” を鼓舞する際に、何度も使われていくことになる。
そんな中、テキサス共和国での住民投票によって、アメリカ合衆国に併合されると、それを認めないメキシコとの間に、1846年にはアメリカ=メキシコ戦争(米墨(べいぼく)戦争)が勃発した。
戦争に勝ったアメリカ合衆国は、メキシコからカリフォルニアなどを獲得。
敗れたメキシコは大半の領土を失うこととなった一方、1848年にカリフォルニアで未曾有のスケールの金鉱が発見されると、翌年にかけて30万人もの人々がカリフォルニアに流れ込んだ。
これをゴールド=ラッシュといい、アメリカ合衆国の比重が太平洋沿岸にも拡大する要因となった。
また、イギリスとの共同管理エリアになっていたオレゴンは、協定によって1846年にアメリカ合衆国に割譲されている。
当時のイギリスにとってもアメリカにとっても、太平洋沿岸を南下してくるロシア帝国に対する警戒感があったことは、記憶に留めておこう。
さて、このように領土を拡大していったアメリカ合衆国だが、国内は “一枚岩” であったわけじゃない。
工業化を進めていった北部と、イギリスなどに綿花などの工業原料を輸出していた南部との間に、大きなギャップが生まれていたのだ。
北部では、イギリスに対抗するため保護関税政策(イギリスからの輸入品に高い関税をかけ、国内の産業をまもる政策)と連邦主義(政府の権限を強めて、トップダウンで一致団結した工業化政策をとっていこうとする考えに)を主張するとともに、人道主義の立場から奴隷制に反対する人が多かった。
1848年には女性の参政権を求める運動がはじまったが、この運動は奴隷制廃止運動とも協力していった。
このころの奴隷の状況は、「スレイブ・ナラティヴ」(奴隷自身の語る体験記)から知ることができる。
また、奴隷制が認められていた南部諸州から、奴隷制の廃止されていた北部諸州に黒人たちを秘密裏におくる「地下鉄道」という市民組織も存在した。
そんな中、現在のカンザスとネブラスカをめぐって、深刻な対立が生まれた。
1854年にカンザス準州とネブラスカ準州について、「自由州」(奴隷禁止)となるか奴隷州(奴隷OK)となるかは住民の投票で決定するとの法律が制定されたのだ。
つまり、新しくできる準州では、住民主権(つまり、奴隷をプランテーションで働かせたい人々の意志)が尊重されたわけだ。
でも、これは、1820年に「北緯36度30分以北には奴隷州をつくらない」ってことを、連邦議会が定めたとりきめ(ミズーリ協定)」に反することになる。
だから、当然奴隷禁止の立場をとる北部や太平洋沿岸の州は反発した。
奴隷制反対をとなえる共和党がホイッグ党にかわって結成され、奴隷制をめぐる南北の対立は決定的になった。
そんな中、1857年には「自由州であるミズーリ州にいるのだから、私には奴隷から解放される権利がある!」というアフリカ系の奴隷 ドレッド=スコットの告訴に対し、
最高裁判所が「そもそも「ミズーリ州は自由州にしましょう」と連邦議会が個々の州のあり方を決める権限なんてないはずで、ミズーリ協定自体が憲法違反だし、アフリカ系の奴隷がアメリカの市民になる資格もない」という判決が出された。今かんがえると、信じられない判決だ。
作家ハリエット(「ストウ夫人」、1811〜1896年)
によって描かれた、奴隷の悲惨なストーリー『アンクル=トムの小屋』(1852年)の大ヒットとともに、アメリカ合衆国には大きな亀裂が走った。
1859年には、白人のジョン・ブラウンらが、南部ヴァージニア州の連邦武器庫を襲撃し、南部の奴隷の蜂起による奴隷制の崩壊をめざした事件も勃発した。しかし2日後に蜂起は鎮圧、ブラウンには死刑判決を言い渡された。
このように、奴隷制をめぐる状況が騒然とする中でおこなわれた1860年の大統領選挙では、民主党の候補が分裂した結果、共和党のリンカンが当選。
もともと彼は連邦の統一を維持することを最優先課題とし、奴隷制を新領土に拡大することだけに反対する穏健派(おんけんは)だった。
自身も奴隷を保有していたくらいだからね。
けれども南部諸州が「リンカンが大統領になるくらいだったら、もう連邦から抜けてやろう!」と、新国家「アメリカ連合国」の建国を宣言すると、事態は急変。
こうして、1861年、日本が 徳川幕府 vs 徳川幕府を倒す勢力 の間に揺れていたまさにその頃、北部と南部との間に戦いが始まったのだ。
北部の側から見れば、この戦いは一国内の争いである「内戦」(シヴィル=ウォー)。
南部の側にとってみれば、もう独立がちらほら諸外国からも認められてるわけだから、国と国との戦いを指す「南北戦争」だ。
リンカンとしては、南部との結びつきの強いイギリスの協力をなんとかしてやめさせたいところ。
そこで、1863年にリンカンがとったのは、南部エリアにおける奴隷解放宣言の発表だ。
リンカンにとって重要だったのは奴隷の解放ではなく、連邦の維持だ。しばしば引用される次の史料を読んでおこう。
これにより「奴隷を廃止するべきだ」と考える北部の支持が獲得できたばかりか、南部とつながりを持つヨーロッパ諸国も「奴隷を解放するという “正義” に基づくのであれば北部を支持するしかないな...」と、好評価を得ることに成功。
だが、この宣言には抜け穴があった。
まず、所有者に対する補償にかんする言及はない。
また、解放の対象となった奴隷は、連邦に反乱する州(南軍)の奴隷のみ。つまり、連邦側(北軍)の奴隷州(境界州+連邦軍の占領地域内の約80万人の奴隷)は対象としなかった。
そして同じ1863年のゲティスバーグの戦い(戦闘後のリンカン大統領の演説で有名)
で勝利してからは、グラント将軍(1822〜85年)のもとで北部が優勢に。
こうして、1865年に南部「アメリカ連合国」軍の最後の拠点リッチモンドが陥落すると、南軍は降伏。
こうして、現在にいたるまでアメリカ史上最悪の60万人以上の犠牲者を出して戦いは終結。
戦後、北部主導で南部のあらゆる制度が組み替えることとなっていく。
現在のアメリカ合衆国では、単に「内戦」(ザ=シヴィル=ウォー)と呼ばれているけれど、日本では習わしとして「南北戦争」という名称で呼ばれている。
南北戦争は、アメリカ合衆国発展のプロセスにおいて “仲たがいもしたけど、結局丸くおさまったよね”のステップとしてとらえられ、今でも4年に1度アメリカが分裂する大統領選挙の際に、しばしば引き合いに出されるよ。
しかし、現在でも南部では「北部による侵略だ」と根に持つ空気はまだある。一部の州では今なお、「アメリカ連合国」の旗のデザインをもつ州旗が使われているくらいだ。
ミシシッピ州の旗
なお、南北戦争に題材をとった優れた文学に、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』がある。読んでみるとわかるが、小説の大部分は「戦後」が舞台だ。新版訳者の鴻巣友季子氏は、この作品が「敗戦文学」として、戦争の記憶色褪せる1930年代以降のアメリカ社会に与えた意味を指摘する。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊