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ACT.75『かつての本線』

夏空の下を

 列車は北見を発ち、留辺蘂に停車した。そしてまず、列車の転換点となる遠軽まで走り抜けていく。そしてその前に立ちはだかるのは常紋峠という厳しい難所だ。
 この峠を貫いて掘られたトンネルには犠牲者が多く発生し、工事関係者の犠牲を弔う慰霊碑も設置されているのだとか…
 北海道の鉄道を待ち受ける難所に立ち向かい、乗車中のキハ283系は遅延の原因と化した温度上昇の線路を踏み締め走っていく。
『グワァァァァァァ…』
と車両を喘ぐような音が包んだ。
 目的地、旭川までの道のりは更にかかるようだ。
 そういえば車内放送で、
「列車は丸瀬布には停車いたしません。」
という案内を流していた。
 そういや丸瀬布には鉄道ファン垂涎の場所、雨宮21号機という小さな蒸気機関車の走る保存鉄道があるのだった。
「また行ってみようかなぁ…」
と車掌の案内を聞きつつボンヤリ身体を車両の座席に傾けた。相変わらず照り付ける空が爽快だ。

慣れた手付きと出会うあの日

 列車はゆっくりゆっくりと留辺蘂から先の道を走り、山岳を一走りした後の休息点とも言えるような駅。遠軽に到着した。
『遠軽からは、進む方向が変わります。』
自動放送の案内にもあるように、この遠軽で列車はスイッチバック方式の方向転換を実施し、編成の進行方向を変えて旭川に向かっていく。
 停車時間は方向転換に向けて…なのか少し長め?に設定されており、自分の座席を回転させてから車両の軽い写真撮影も可能だ。写真は自席の転回を終了させた後に撮影したキハ283系の写真である。
 既に照り付ける日差しが車両を大きく覆い、白飛びした状態になっている。
 何度も思うが、この場所をキハ183系…国鉄時代の車両で越えてみたかった。それを非常に今でも悔いてしまうところだ。
 何かこう、令和の石北本線の顔として佇む姿に特急車両としての威厳は感じるのだが、まだ座った貫禄は感じない。もう少し時間を経れば、この車両にも新たな石北本線の仕事ぶりが似合うようになるだろうか。
 ちなみに。
 車両の方向転換作業のスイッチバックには、車掌も車内巡回を兼ねて転回させていく様子を見る事ができる。乗客と共に作業を実施する姿には、旅の案内人としての頼もしさのようなものを感じる。
 自分はこの遠軽でのスイッチバック対策として座席に空席がある事を確認して着席したのであったが、少しこうした点に気を配って乗車せねば石北本線の長距離の旅路は難しい。
 自分の近くの乗客が遠軽到着後も中々起床しなかったので、軽く座席を叩いて起こす。会釈も相俟って、車内に軽い一体感が漂っている。

 時刻は既に昼過ぎになろうとしている。
 車内で食した北見駅前のおにぎり屋さんでの砲弾かと思うような巨大なおにぎりを3個食し、既に胃の中はドッシリと米の塊で支配されている。
 柱は木製。地平に広がっている駅舎の構造。
 ヤード線を思わせるような配線は、正に国鉄の『らしさ』を凝縮したような風格だ。この駅に関しては再び、石北本線からキハ40形が離脱しないうちに再び訪問したいと思う。
 木製の古さに歴史、重みを感じさす遠軽の駅ホームの真ん中に、とある遺構を発見した。実はこの遺構。遠軽の駅構造に大きく関与しているのである。

 この発車標が、遠軽の歴史を語る遺構なのである。現在でも現役なのは現役なのだが、実は幅1つ分大きいのには理由があるのだ。
 この発車標。実は上部の点灯しているヶ所から
『旭川・札幌方面』
『北見・網走方面』
『紋別・名寄方面』
と3つの方角が記されている。
 旭川・網走に関しては現在も使用している石北本線の部分なのだが、
『紋別・名寄方面』
とはどうした意味なのだろうか。実はこの『名寄方面への方角』こそが、遠軽での列車運行への支障に発展しているのだ。

※写真は名寄駅から歩いた距離にある、北国博物館の周辺にある駅名標。名寄本線に関しては道北でかなり遺構が残されており、歴史の語り部として現在も楽しめる。道北にあるこの名寄本線の遺した駅名標は、距離を経て遠軽に伏線をもたらすのだった。

 遠軽…という駅は、かつて北海道の道北方面の本線・動脈輸送を担っていた『名寄本線』の駅だったのだ。名寄を経て、最終的にこの名寄本線は遠軽に到達していた。
 名寄本線が遠軽に到達したのは大正10年の話。昭和2年開設の遠軽機関区と共に、名寄本線の要衝としての役目も果たす事になったのである。(注*この時の名寄本線は中湧別を境にして軽便鉄道で分離されていた)
 石北本線の全通は昭和7年の出来事だ。同時に名寄本線は統合され、名寄から遠軽までは無事に名寄本線として1つの路線に成立するのである。
 石北本線に関しては関東大震災の発生を受け、工事着工はかつて延期されていた。そうした中での遠軽方面から国会のある永田町への石北本線への陳情、通称『かぼちゃ陳情団』に関してはコレもまた遠軽の町の歴史として、そして鉄道史として大きな歴史を持っているのだがこの話は次回の遠軽訪問の際まで取っておこう。
 そして昭和7年から。遠軽は名寄本線・石北本線の2つの本線の駅として稼働していくのであった。

現在の形状へ

 昭和の高度経済成長を経て。石北本線。名寄本線は互いの路線を共存させ遠軽の町に根ざしてきた。しかし、そうした歴史も決して長いわけではなかったのである。
 名寄本線の時代。遠軽の人々は旭川に行くにしても「一旦、名寄を経由してから遠回りするようにして」旭川・札幌に向かわなくてはならなかった。列車で長距離を移動し、開通していない部分をカバーして走破する。そうした生活を何度も繰り返してきた。
 平成元年。昭和の末期に決定した名寄本線が無くなった。遠軽には石北本線だけが取り残されてしまった。
 この『名寄本線の廃止』が、現在の遠軽駅のスイッチバック構造の原因として今日も道東鉄道移動のネックになってしまったのである。開通した当初は、『道東の悲願』であった石北本線であるが、現在は輸送の要として峠に立ちはだかっているのである。
 発車標に残された『紋別・名寄方面』は静かに往時を語り、この駅の行き止まりの構造をよく知る証でもあるのだ。次の石北本線訪問時まで、しっかりその語り部は残存しているだろうか。

 遠軽のスイッチバックを終了させ、列車は進行方向を転換させた。旭川までは残り2時間近くかかる長い道のりだ。そのまま白滝・上川に向かって進行していく。
 遠軽のスイッチバックを終え、そのまま上川方面に向かって進行している間にラッセル車の保存車を車窓から発見した。
 遠軽の機関区があった事を象徴し、D51形蒸気機関車と一緒に保存されている車両である。
「あぁ…そういえばおったんやった…また次回やなぁ、仕方ないか。」
大きく広い北海道の形状、駅近の保存車であったとしても訪問の取捨選択を取っていかねばならない状況には何個かさせられた。
 遠軽のD51形蒸気機関車に関してはデフレクター(煙よけ)に特別な装飾がなされ、機関車の代名詞のような存在にまでなっている。
 北海道らしい蒸気機関車…としてはこの上ないのだが、今回は北見方面をそのまま優先した結果として次回に回した。
 石北本線沿線に関しては、キハ40形の引退も控えているので目的には余裕を持っておきたいところだ。

 遠軽の駅に、こうした遺構があるのを発見した。
 国鉄時代から、多くの駅員や職員を
支えた標識なのだろう。多くの鉄道員たちがこの駅で支えられ、そして令和の今もこの場所で鉄道の安全を守っている頼もしさを車窓越しに感じたのであった。
 軽く写真を撮影しただけでも、この駅の中にある国鉄情緒が伝わってくる。この本線から、余計に
目が離せなくなってきた。
 話は遠軽のスイッチバックを発車したところに戻していこう。
 列車の速度はまだ上昇せず、ゆっくりゆっくりと低速というのか慎重な走行をキープしている。ここから戻ってくるかと思いきや、そうでもなく警戒したような足取りは変わらないままであった。
 そのまま、進行方向を変えて旭川に向かう特急/大雪の車内。自分は少しだけ車窓を眺めた後で、昼寝の時間に落ちていった。旭川まで、気休めの時間を過ごしていこう。

タンチョウを外したエース

 知らず知らずのうちに、列車は旭川の高架橋の近くを走行していた。大橋俊夫氏による少しダークな車内放送が薄暗い車両に降り注ぐ。車掌による、次の列車の案内放送が流されるのだが自分はその列車には乗車しない。
 この駅で北海道夏期の定番なあの観光列車を撮影する予定があるのだ。間一髪で…と言ったらなのだろうか、それとも。何とか間に合った。
 旭川駅に到着した。
 列車を記念に再び撮影する。
「お前はやっぱりスーパーおおぞらなんだけどなぁ…」
そうした思いも相まってか、この形式に対する複雑な思いはまだ抜けないところだった。たかが1往復を石北本線という新天地で過ごしただけでは、まだ刺さらない事が多すぎる。
 そして石北本線での旅路は、国鉄時代からの北海道伴奏者であった、キハ183系の失脚と消滅を感じさせるものでもあった。
 トレインマークを手軽に撮影した。
 縦長の3色LEDからタンチョウヅルは消滅し、北海道の雄大な雪山が聳えている。
 まだこの車両の活躍ぶりを感じる事が出来ない自分が歯痒かった。北海道をもっと早く知っていれば…の気持ちも挟まっているのであった。
 そして少しだけ映っているヶ所だが、渡り板の
『キハ283-11』
のフォントもまた素晴らしい。この車両が残しているJR北海道の絶頂期には、鉄道少年から駆け上がった人々は誰もが惚れていくだろう。

 特急列車を降車した後の時間というのは、旅人の記念の時間である。自分の他にも何人かがこの列車を撮影していた。
 そういえば。キハ283系に車両が交代し、列車表示器の列車名も日本語と英語の併用表記が可能になっているのだと写真を撮影してから知る事になった。
 現在の主流形式となったキハ261系の白い新塗装の車両たちでは感じられない、幌枠の大胆な構造はこの形式ならではの武骨さである。
 旭川駅の威容あるその屋根の下、高運転台のエースがゆっくりと足を休めていた。

 車両を幾つか眺めてみよう。
 北海道の特急列車は、全て高運転台の構造をしている。その中には、スマートを感じる車両だったり『高運転台』の構造に縛られがちな細めに感じる車両もいる。
 しかしこのキハ283系は北海道の高運転台の一族の中において、最も武骨でかつ、「ずんぐり」した車両ではないだろうか。
 そしてその唯一無二の姿は、多くの鉄道ファンに多くの鉄道少年を魅了している。
 石北本線の車両としては、キハ183系以降抱えていた車両の頭打ちになっていた速度。車両の老化。そして列車に新しい風を吹かせるに最適な車両であったろう。
 石北本線…に転職してから、運転台下部には石北本線の『沿線名所・景勝地など』が配置されるようになった。
 この撮影した車両は、今回奇しくもこの本線で向かった『北見』の名物・カーリングであった。駅前にあったカーリングストーンを載せた可愛いポストが浮かばれる。

 キハ283系の車両要となっている、台車である。この車両の台車は、時のJR北海道にとって挑戦と威信をかけたものである。
 キハ283系が履いて走行する台車は、N-DT283と呼ばれる台車だ。この台車、先代の北海道での制御付き自然振り子台車搭載の特急形気動車・キハ281系に続いて同じく『振り子』の機構を搭載したほか更なる速度向上を狙って自己操舵の機能も搭載された。この影響で、先代のキハ281系と比較し振り子の傾斜角が向上。同時にスピードアップで北海道の鉄道速度向上と所要時間短縮に大きく貢献を果たしたのであった。
 平成9年の量産車生産以降に石勝線『スーパーおおぞら』で活躍し、以来石勝線での活躍で振り子機能や車体傾斜への実力を発揮し活躍を継続したが、石勝線からは令和4年に引退した。
 翌年の令和5年には石勝線にて復活したのだが、車両自慢の機能であった傾斜角を増幅させた台車に関してはその車体傾斜・振り子の機能を停止している。
 現在は振り子を効かせて高規格な石勝線で活躍した功績は語り部のうちに入ったが、この車両の残した活躍。そして道東の鉄道網の希望となったその機構は、停車中に観察が可能である。
 皆さんも是非眺めていただきたい。

 再び、車両前頭部を撮影する。
 奥には函館本線の普通列車として活躍し旭川近郊の交通網を担う、721系電車が停車している。
 こうした並びは現在でも札幌などで観察が可能だが、こうして眺めているとまた時代の変化や活躍場所の推移を感じられる貴重なものだ。
 共にJR北海道の順風満帆な時代を知る者同士。変化し、下降に向かっていくこの広大なる北海道を眺めてどのような気持ちで活躍を継続しているのだろうか。

 既に旭川近郊の主役となり。宗谷本線に富良野線などで活躍しているH100形と並んだ姿を撮影した。
 がっしりと組まれた旭川の駅構造と互いにならぶ
2つの車両は、JR北海道の世代交代。そして時代の変容を見つめる姿に重なってくるものがあった。
 既にこの旭川付近滞在で、H100形にも見慣れてきたものである。シルバーの少し冷たい空気を感じながらにも重厚な車両の佇まいは、何処か最北の都市圏を担う使命感のような気風を感じる。きっと次回の訪問では、更にこの車両が勢力を拡大させているのだろうか。

去りゆく時に

 既に石北本線での特急/大雪などで新たな主役の責務を背負ったキハ283系。
 折り返して網走方面に再び向かっていくようだ。難所。常紋峠に向かって足を再び進めた。車内には多くの乗客が座っている。
 既に列車は短編成となり、かつての石勝線での栄光は去りて1年近くなったが、北海道の時代を見つめるエースの威厳は簡単に消えない。
 その眼光で鉄路を照らし、蒸気機関車の時代から立ちはだかる難所に向かって、新たな仕事をひたすらこなしていくのみだ。
 制御付き振り子気動車…ではJR四国2000系よりも早い失脚となってしまったが、奇跡的に新たな職場を充てがわれ今日も走行している。
 旭川駅の複雑な配線を走行し、エンジンを唸らせ消えていった。
「またいつか会おう。」
その思いでカメラの画面を見つめ、テールライトを見送ったのであった。
 石北本線の旅路はこれにて終わる。また次はいつの乗車になろうか。

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