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猫を棄てる:村上春樹
村上春樹は自分で自分をわがままな人間だと言っているけれど、確かに、それがそのまますんなりと感じとれるのは、わたしも、わがままな人間だからということだろう。
その村上さんの新刊を読んだ。淡々とした語り口は、いつもの村上春樹だ。昔は新刊が出るたびに読んでいた村上春樹の本を、読まなくなっていったのはいつからだろう。
アメリカに住んでからは、英訳されたものを読んでいた。村上さんが自身で丁寧に選んだ翻訳家の文章だけあって、オリジナルの雰囲気がよく保たれた英文の文章だった。
それにもかかわらず、彼の女性感にやや嫌気がさして読まなくなってしまった。
だからこの2022年11月に出版された「猫を棄てる」は久しぶりのムラカミだ。
先にも書いたように、淡々とした語り口。
その中で、ハッとしたのは次の文章だ。
こういう個人的な文章がどれだけ一般読者の関心を引くものなのか僕にはわからない。しかし僕は手を動かして実際に文章を書くことを通してしかものを考えることのできないタイプの人間なので (抽象的に観念的に試作することが将来増えてなのだ) 、こうして記憶を辿り過去を眺望し、それを目に見える言葉に、声に出して読める文章に置き換えていく必要がある。
そしてこうした文章を書けば書くほど、それを読み返しば読み返すほど、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる。
手を宙にかざしてみると、向こう側がかすかに透けて見えるような気がしてくるほどだ。
引用:猫を棄てる
わたしも、書くことでしか心を整理できない部類の人間なので、この文章には感情移入できる。そして結局は、ものを書く人というのは、多かれ少なかれ、こんな感覚を抱いているのではないかと思う。
そしておそらくは、多くの人が自分の親との関係で、言葉にできないような感情を抱えているものだ。
村上春樹の言葉で言うと、
僕は今でも、この今になっても、自分が父をずっと落胆させてきた、その期待を裏切ってきた、と言う気持ちを ーあるいはその残滓のようなものをーいだき続けている。
と言うことになる。
そして彼の言う、
我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか
この文は、まったくもって確かだと思う。
けれどもその逆もまた然りで、実は唯一無二の事実を、たまたまの偶然と見過ごしてしまう愚かさがわたしたちには日常の中に潜んでいるようにも思えるのだ。
目を大きく見開いていないと、そして神経を研ぎ澄ませておかないと、すぐに消えてなくなってしまうもの・ヒト・感覚は、本当は、唯一無二の出来事なのかもしれないから。
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