町 紗耶香 - Sayaka Machi -

文筆業||食・自然・伝統文化にまつわるテーマについて執筆. Writes about …

町 紗耶香 - Sayaka Machi -

文筆業||食・自然・伝統文化にまつわるテーマについて執筆. Writes about topics related to food, nature, and traditional culture. 静岡県島田市在住。 http://sayakamachi.jp

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『衣・食・住』を伝える大切さ。|自己紹介

今日は、私について書きたいと思います。 私は主に文章を書くお仕事をしていて、気がつけばもう14年になります。大阪で3年半、静岡には10年ちょっと、その間にさまざまな経験や気付き、発見がありました。 第三者目線であったり、クライアントの思いを綴ったりと、たくさんのお仕事をさせていただきましたが、「私自身の言葉で伝えたい」という思いがついに溢れてしまいました。なので、これからは文筆家としても、活動していきます。 いま、私が一番伝えたいことは『衣・食・住』をあらためて立ち返る

    • 前提条件の大事さ

      私たちは無意識のうちに、自分のなかに「前提条件」を作っている。 例えば、 というように、人によって「なにかを始める」というときの「無意識の前提条件」は、一人ひとり異なる。 スタート時点は同じラインにいるのに、10年、20年と経っていくと、道が違えていくのはただただ「前提条件」の違いではないかと思う。 この条件に縛られてしまうと、強制力が働き、思っている方向へ進む可能性が高い。 子どものころは大差がなくても、だんだん考え方や感じ方に違いがでるのは「知らず知らずに構築さ

      • 「基本」が一番の近道

        「なんだか、あいまいで、輪郭がぼやけているな」 つくづく自分自身に感じることが多い。 このような状態に陥っているときは、たいてい「基本」というものを見失っているときだ。 基本をしっかり身につけたものに関しては、基本から飛び抜けてしまっても輪郭というものをしっかりと保っている。ぼやけることはなく、よりよいカタチを作っていく。 けれど基本なしに作りあげたものは、いつもあいまいで、ぼやけていて、スッキリ感がない。この状態が長く続くと、本当にモヤモヤする。 基本というのは、

        • 子どもは親を選んで生まれてくる

          「子どもは、親を自分で選んで生まれてきているんだよ」 この言葉を昔の私は理解できなかった。けれど今なら理解できるし、「そう思う」と断言できる。 子どもは、間違いなく「自ら親を選んで」生まれてきている。 私は、父と仲が良くなかった。今も別に仲良しではないが。(笑) ことあるごとに喧嘩になり、言い争いになり、私のやることなすことすべてを否定してきたし、破壊もしてきた。今思えば、「心配」からだったのだろうけれど、子ども心には憤りしかなかった。 とにもかくも、私にとっては大き

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        • 「書く」お仕事
          5本

        記事

          スイッチを切り替える

          世の中のほとんどが、「思い込み」で生きている。 誰かに憧れたり、 誰かに嫉妬したり、 なれない自分に、なりたい自分に苦しむ。 これはすべて「思い込み」なのだ。 思い込みにとらわれると、そこでずっと停滞してしまう。そんなときこそ、意識的に「スイッチ」を押せばいい。 自分のなかのどこかに、「スイッチ」は必ずある。 自分の心のどこにスイッチがあるのか、それを常々知っておく、感じておくのは、とても大切なことだ。 いつもの思考を、いつものクセを、電気の回路を切り替えるように

          スイッチを切り替える

          私の欲。

          私は「人間とは」をずっと考えたいのかもしれない。 人というのは大いなる可能性を秘めている。 どんな人であっても、どこの国にいても、どんな人種でも、どんな年齢でも、必ずそれがある。 ただその可能性を、自分自身で潰していたり、隠していたり、目を背け続けているような状態を見ると、どうしても私は悲しくなってしまうようだ。 誇れるものというのは、必ず自分の内側にある。 でもそれは自分自身で見つけ出して、磨かないといけない。 そこを放棄してしまうと、自らが自らをどんどんとおとし

          親業

          親というのは、どういう役割なのかをよく考える。 親の役割のなかには、「精神的親業」と「物理的親業」があると思う。 精神的親業とは、 なんかじゃないかなと、私は思っている。 物理的親業とは、 などだ。 この「精神的親業」と「物理的親業」は、子どもの年齢によって変わる。 どうやって手を差し伸べるかは、年齢に合わせていく必要がある。 我が子を年齢に合わせて「この子は何ができるんだろう」とじっと観察してきた。彼自身ができることは、「手を出す」ことを一つずつやめてみた。

          曖昧さ

          言葉というのは、すごく曖昧である。 ある出来事が起きた時、見る角度によって、感じ方によって、かけられる言葉は変わる。 あなたは優しすぎるんだよ。 あなたは甘いんだよ。 あなたは待てる人なんだね。 あなたは覚悟がないんだよ。 一見優しい言葉、一見辛辣な言葉、実はどれもがその出来事に当てはまる。 「そうなの」 と、返答できるのは、自分が「どんな声をかけてもらいたいのか」によって、相手への印象が変わる。 優しくされたければ、優しい言葉が心地よいし、 頑張りたいのであれば、

          決める大切さ

          色々な問題や、おかしいな?ということが、この頃多発した。 私もついイライラしてしまい、「なんでなんだろう?」と考えた。 問題の根底は、「責任の所在は?」ということなのだが、責任を取るべくやることをやっていたとしても自分の考えややり方が正しいわけではない。 目の前に起きることに冷静になれず、感情が揺れ動かされるのは、必ず自分のなかに問題の原因があるからだ。 その正体はなんなのか。何周も何周もひたすらぐるぐる思考が駆け巡る。 辿り着いたのは「自分が不安だった」からであっ

          「成長」or「安定」

          子どもと、大人の違いというのは、 「成長」が、キーワードかもしれない。 子どもというのは、自然と体がだんだん大きくなるし、加齢にともない経験や学びが増えて心も成長する。 そして小学校、高校、大学、就職と、「成長」のルートがある程度定められている。 だから、子ども時代というのは周りとの大きな違いを感じることは少ないのかもしれない。 就職を終えて「大人」になってしまえば、その先のルートというのは用意されていない。 自分でどうするかを決めないといけないのだ。 「まだまだ学ん

          「成長」or「安定」

          いくら重ねても、いくら気づいても、いくら反省しても、 「あ、本当はこうだった」 「あ、私は実はこう思ってたんだ」 と、波のように気持ちが押し寄せる。 「分かっていた気になっていたな」と恥じる思いを幾度となく味わう。 そのとき、その瞬間は、本気で真剣に真剣に考えているけれど、そこでたどりついた答えというのはいつも儚く消える。 この道程が間違いなく自分自身の糧になっているからこその気づきと分かってはいても、「あぁ、私はなんて傲慢だったんだ」と、その都度やっぱり落ち込んで

          平行線

          どれだけ熱意を伝えても、心を尽くしても、見てる世界が違うと会話はまったく通じない。 それは相手も全く同じだろう。 時差で通じることもあるけれど、その場では異次元にいるかのように感じることがある。 こういう体験をすると、いわゆる二極化や次元の話も納得だ。 どちらが良い悪いはなくて、 ただ、そうである。 それだけだ。それを認めて、自分の世界を大切に扱うことこそが相手のことも大切に扱うことになるのだろう。

          おばあちゃんの教え

          私はおばあちゃんっ子である。 自分のおばあちゃんが好きで好きで、小さい頃に「年老いた人から死んでいく」という事実を知った時は愕然とし、一人泣いたこともある。 昭和11年生まれのおばあちゃんはさまざまなことを教えてくれた。 「あんた、世界は広いで。外国たくさんいきな」 「結婚なんてはよするもんちゃう。30歳くらいまで遊んだらええ」 「あんたな、いくら夫婦とゆうても他人や。いくら仲良しとおもても、言ったらあかんことがある。気をつけや」 「へそくりのひとつもできへん女な

          おばあちゃんの教え

          思い込みと勘違いで世界はできてる

          自分がテキトーだから真面目にならないと!と頑張っていたとしたら、実はテキトーであることを自分自身に認めて生きていく方が人から評価されたり。 相手を助けたいと頑張れば頑張るほど相手をダメにし、相手にあえて手助けをせず流れに身を任せた方が相手は成長したり。 この世の中でうまくいかないとこがあれば、それは「自分の考え方が実は真逆である」ということが多い。 正しいと思い込んでいる考え方を、まったく真逆に作用させると驚くほどスムーズにいったりする。 逆にスムーズにいっていたこと

          思い込みと勘違いで世界はできてる

          年齢を重ねる楽しさ

          歳をとるというのは、子供の頃や10代の頃はよくわからなかった。 いま37歳だが、幼子からすれば「おばちゃーん!」な存在であるし、かつての私もそう思っていた。 歳を重ねるにつれての変化というのはとても大きいと想像していたけれど、10代はいいすぎだが、実際のところ10・20代の頃から自分が変わった気はしない。 ふとした時に「あ、自分はもうおばちゃんだ」と気づくけれど、当たり前にずっと「自分」であるから、年齢というのはただの記号でしかなく、年齢という概念は未だ正直なところよく

          年齢を重ねる楽しさ

          非日常と日常

          人は、非日常に憧れる。 非日常とは「自分の日常とはかけ離れている」ということだ。 日常というのは「普段の自分であり、当たり前であり、普通のこと」である。 しかしその日常というのは、「自分にとっての日常」でしかない。日常は、一人ひとりで大きく異なるのだが、そこを人は無意識に見落とす。 ある人がステキな暮らしをしてると、人は憧れる。けれどその憧れの人にとっては「日常である」ので自分をステキとは思っていない。 その憧れの人自身も、他の人に対して自分にとっての日常ではない暮