おばあちゃんの教え

私はおばあちゃんっ子である。

自分のおばあちゃんが好きで好きで、小さい頃に「年老いた人から死んでいく」という事実を知った時は愕然とし、一人泣いたこともある。

昭和11年生まれのおばあちゃんはさまざまなことを教えてくれた。

「あんた、世界は広いで。外国たくさんいきな」

「結婚なんてはよするもんちゃう。30歳くらいまで遊んだらええ」

「あんたな、いくら夫婦とゆうても他人や。いくら仲良しとおもても、言ったらあかんことがある。気をつけや」

「へそくりのひとつもできへん女なんて、嫁失格や」

「夫婦てゆうのは分からんもんやで。何年付き合ってても、あ。こんな一面あったんや。てびっくりさせられるもんや」

これらおばあちゃんの数々の言葉は私の胸に刻まれている。
おばあちゃんの世代に似つかわしくないことも、自分の体験や経験から偏見なしに教えてくれた。

いつも平和そうで、心地良さそうに生きていて、「悩みがないのが悩み」なんていつも笑って言っていた。

そんなおばあちゃんだが、やはり歳に勝てなかったようである。

健康体なので内蔵に問題は一切ない。病気は高血圧くらいだが、ある時衣紋掛けが落ちてきて手に怪我をした。その数年後も、転んで顔を擦り剥いた。
このようなことがあり、次第におばあちゃんは体の衰えを感じだしたのか、この頃は自信をなくしてきた。

おばあちゃんは、和裁をずっとやっていた。小紋や、色無地、紋付き、振袖にいたるまでさまざまな着物を縫っていた。

それが目が悪くなり、手が動きにくくなり、ついにはやめた。

そのあとはずっと編み物をしている。今も続けているが、目の数を間違えたり、段を間違えたりと、今までの自分とは勝手が違うことにとても悶々としているそうだ。

ずっとできていたことができなくなる。それはとても辛いことだろう。

どんなときも飄々と笑って過ごしてたおばあちゃんが最近は少し愚痴っぽい。

そんなおばあちゃんをみて私は「もとからそんなもんやん♪歳やからしゃーないな」と笑い飛ばすが、「あんたも歳をとらなわからへん」とちょっと拗ねたように返してくる。

この年齢にしたら当たり前の受け答えなんだろうけれど、これまではずっと笑っていて、いつも私の想像範囲外の答えをくれていたからこそ、私は少し寂しい。

私のおばあちゃんは、どこまでも平和だった。自分の身の回りに起こることを面白がり、どんなときも心地よく生きてた。それが老いという現実を前にして、崩れてきている。

やはり、歳をとるというのは、辛いことなのだろうか。私にはまだわからない。

「やりたいことがやれなくなるのが辛い」ということが歳をとるということならば、おばあちゃんは80歳すぎまで悠々と好きなことをやれていたから、むしろ珍しいほど幸運なのかもしれない。

やりたいことがいつでも家のなかでもできることだからこそ、続けられてきた。だから常に心地よく生きてこられたのだろうか。

私がおばあちゃんの年齢に追いつくにはあと50年ほど生きないといけないので、いまのおばあちゃんの気持ちを理解できるか理解できないのかが分かるのは、残念ながらおばあちゃんが死んだ後だ。

だから私はおばあちゃんに宣言してみた。

「80歳すぎたらどう感じたかって検証して私なりに答えを持って行くから、とりあえず死んだ先で待っててな」と。

できれば、おばあちゃんと違う答えを私は用意したい。80歳をすぎても「歳取るのってまだまだ楽しい。体はえらいけど、大変とかよくわからんわー」と、私は言いたいのだ。

平和だったおばあちゃんが愚痴っぽいのが悲しいからこそ、ほんとは今言ってやりたいけど、今言っても若い私にはまったく説得力がないので言うことを諦めた。

だからの、「あの世で待っててや!」の宣言である。

さて、この不毛な検証結果を出す為に、あと50年は健康体を維持せねばならないことになってしまった。

そんな新たな目標を、なんだかんだで私に与えてくれたおばあちゃんは、やはり上手かもしれない。

んー!ばあちゃんって存在はやっぱすごいな!

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