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子どもは親を選んで生まれてくる

「子どもは、親を自分で選んで生まれてきているんだよ」

この言葉を昔の私は理解できなかった。けれど今なら理解できるし、「そう思う」と断言できる。

子どもは、間違いなく「自ら親を選んで」生まれてきている。

私は、父と仲が良くなかった。今も別に仲良しではないが。(笑)
ことあるごとに喧嘩になり、言い争いになり、私のやることなすことすべてを否定してきたし、破壊もしてきた。今思えば、「心配」からだったのだろうけれど、子ども心には憤りしかなかった。

とにもかくも、私にとっては大きなハードルだった父親だが、その父との日々のバトルにより私の精神性はかなり鍛えられた。ちょっとのことでは物怖じしないし、立ち向かう強さも、負けない心も、間違いなく育まれた。

そして父の一番すばらしいことは、どれだけ本人がやらかしても失敗しても人として反省すべき点があったとしても、「オレは正しい」という姿勢を保っていたことだ。
今もそれは変わらない。もう呆れるレベルであり、母や祖母は正直呆れている。私も。(笑)

父のこの不屈の精神は、多大な影響を私に与えてしまった。父のようにはなりたくないが(笑)、認めたくないが似ているらしい。残念である。

そして、良いのか悪いのかはさておき、「私は私」の精神をものすごく受け継いでしまったことは、大人になり、社会に出て、とてもとてもとても役に立っている。

子どものころは「このやろー!」と思った父であるし、父の勝ち気な性格を受け継いだゆえに周りにも迷惑をかけた(反省してます…)が、「私は私」と思えるように育てられたことは本当に大きな財産だ。

こんな経験から、私は我が子に対しても、「いまの私のままでいい。背伸びせず、ありのままで接することが大事だ」とすごく思えている。

いわゆる「良い親」というテンプレートみたいなのが、なんとなく社会には存在している。その想像や妄想に囚われて「親とは?」に迷走しがちだが、そもそも子どもは「親の思う、理想の親像」なんて知らない。

「今目の前にいる人が、自分の親」ということしか、知らないのだ。生まれてこの方、我が子は「親」という存在を私と夫からしか知らないから、「いわゆる親」は「こんな人たちのことを指す」と、壮大な誤解をしてくれている。

親がいくら理想を追い求めても、子どもにとっては「目の前にいるありのままの人間」が親の設定なのである。だから「私は私」で接することこそを子どもたちは望んでいるはず、と勝手に思っている。

「そのままの私」を見て、きっと子どもは学び、成長していく。

私は両親を見て学んだ。ダメなところがたくさんあった両親のおかげで今がある。だから結果として「あ、私がこの親から人生を学びたくて自分で選んで生まれたんだわ。なるほど、ありがとう」と思えている。

だから、きっと我が子たちも「あ、私たちから学ぶために私たちから生まれたのね」と思っている。ゆえに、「私は私」を親であっても貫くことが、我が子たちにとっての幸せにつながると思っている。苦手なものは苦手だし、不満もあるし、凹みもするし、かといえば楽しすぎたときはやらかしてしまい反省する。こんな姿をきっと子どもたちに見せることが大事なのだろう。

実際は壮大な誤解かも知れないけれど、人間はたいてい「思い込み」でできているのだから、これはとてもハッピーな思い込みだろう。(笑)

「私が私」であることは、実はとてもむずかしい。すぐになにかに「憧れて」しまうからだ。

けれど、「我が子のため」と思えばこそ、「私であること」をより貫ける。

いわゆる良い親の幻想にとらわれることなく、理想の自分に憧れ、嘆くことなく、「今の自分」の成長を、更新を、続けていきたいし、そうすることが「私は正しい」と思っている。

世間とは少し違うかもだが、これが私の思う「良い親」像である。今のところそれをできているから、「こんな素敵な母を持てて、あなたたち幸せね」という壮大な勘違いで私は生きている。

この勘違いにより我が子らの笑顔が曇っていたら大問題だが、毎日彼らはケラケラ笑い、ハッピーそうなので良しとしている。この勘違いはいつまで続けられるのか。我が子たちは私の壮大な勘違いに気づくのか、それともそれが正しいと思うのか。この検証結果がでるのはいつだろう。

今日も平和なことに乾杯。

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