親というのは、どういう役割なのかをよく考える。
親の役割のなかには、「精神的親業」と「物理的親業」があると思う。
精神的親業とは、
なんかじゃないかなと、私は思っている。
物理的親業とは、
などだ。
この「精神的親業」と「物理的親業」は、子どもの年齢によって変わる。
どうやって手を差し伸べるかは、年齢に合わせていく必要がある。
我が子を年齢に合わせて「この子は何ができるんだろう」とじっと観察してきた。彼自身ができることは、「手を出す」ことを一つずつやめてみた。
これは「親業って、本質的に何なのかが分からない」私なりの実験でもある。
赤ちゃんのときはイチから十まで手助けしないと生きていけないけれど、我が子7歳はもうひとりでなんでもできている。
彼は、ごはんも作れるし、洗濯もできるし、そうじもできるし、布団もしけるし、お風呂も一人で入れる。そして学校の準備や身の回りのこともできるし、なんなら魚もさばけるようになった。
親ながらに「すごいな」と思うほど、たった7年でここまで成長したのだ。
物理的なことをなんでもできるからこそ「親ってもう必要ないのかな?」なんて思うときもあるが、「精神的」にはまだまだ求められているように感じる。
やっていることを「見てほしい」し、できたことを「ほめてほしい」。
たまに頑張りすぎて疲れたときは「よしよししてほしい」。
一緒に「楽しい!」を「共有してほしい」。
今彼が、母である私に求めているのは、上記のような「精神的な支え」だ。
これは我が子であり、7歳であるからこそ、冷静に観察できているが、実はこれは「大人も同じなのかもしれないな」と、思う。
物理的なことができればできるほど、「精神的な安心感」を人は求める。
「人は一人では生きていけない」というのは、物理的な面ではなく、精神的な面なんだろう。
精神的に安定すればこそ、やっと「自分」として生き生きとできるのだ。
親をしているとつい「物理的」な手助けばかりをしがちだが、人間が本当に欲しているのは「精神的」な充実だ。そのバランスを崩したとき、人は物質的な部分で欲を満たそうとしているように思える。
子どものうちに「精神」をできるかぎり満たすことができれば、大人になったときにむやみに精神的な安心感を求めるというのはなく、ただ自分の道をまっすぐに歩めるのではないだろうか。
なんとなく、我が子を観察していてそう感じている。
まだ7歳だが、彼はどのように成長していくのだろう。すでに彼は彼の人生を歩んでいる。
未来のことはまったくわからないが、果たして私の検証や想定は正しいのか。これからも親業を考えながら、観察を続けてみたい。
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