私は「人間とは」をずっと考えたいのかもしれない。
人というのは大いなる可能性を秘めている。
どんな人であっても、どこの国にいても、どんな人種でも、どんな年齢でも、必ずそれがある。
ただその可能性を、自分自身で潰していたり、隠していたり、目を背け続けているような状態を見ると、どうしても私は悲しくなってしまうようだ。
誇れるものというのは、必ず自分の内側にある。
でもそれは自分自身で見つけ出して、磨かないといけない。
そこを放棄してしまうと、自らが自らをどんどんとおとしめてしまうのだ。
それはそれで、美しいとは思う。人間らしいと思う。
ただ、私が、「人間の可能性」という先を見たいという欲望があるがゆえに、可能性が見られない気がすると、悲しくなってしまうみたいだ。
どんな芸術も、建築も、造園も、工芸品も、音楽も、文章も、「ただそこにある自然」ではないものは、人の想いが必ず絡んでいる。
想いというのが現象となり、あらわれている。
一度独り歩きしたものは、人の気配が消えていくけれど、気配が消えたものにこそ強烈な人の我がそこにはある。
それが一体なんなのかを、私は知りたい。
もっと大勢の人と関わって、もっとたくさんのものを内側に満たしていけば、今よりは少し正体が分かるようになるのだろうか。
人というのは、本当に一体なんなのだろう。
分かる日は、到底来る気がしないから、また面白い。
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