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母性 湊かなえ

読了後、夕飯の支度をしている最中もずっと、この本のことを考えていた。そして、自分が大きな勘違いをしていたかもしれないことに気付いた。読んでいる最中は「こういうことだろう」とはっきりと思ったのだが、やっぱり違ったかもしれない。

母性 湊かなえ

母親側と娘側、双方の言い分(手記と回想)が、私の頭の中をぐるぐるしている。

母性とはなんなのだろうと思うことが時々あった。
自分の生活の中でも、自分とは関わりのないところでも、まるで当たり前のように存在しているかのように語られる母性について、疑うことのない時代がきっとあったのだと思う。

母性は湧き出るものなのだろうか。

母性とは、愛とはなんなのだろうか。

視点の違いで見えてくる真実

ある家族の母親と娘、それぞれの視点で物語が進んでいく。
母親の語る内容だけでは分からなかったことが娘の回想で判明したり、母親が語らなかった真実が娘の回想で語られたりする。

読んでいる最中は娘の側になって「なんて母親だ」と思ったりもしたのだが、読み終わって時間が経つにつれ、そうとも言い切れないようにも思い始めている。

とは言っても母親を全肯定することは(私は)できないのだが、娘の言い分を全て肯定することもできない。
これが友達だったら、職場の人間関係だったら、ここまで執着はしないだろう。親子だから、母と娘だから、お互いに執着しているのではないか。お互いに縛りつけあっているようにも見える、しかしお互いの主観では突き放されているように感じている。

そもそもルミ子(母親)がなぜこうなってしまったのか、それはルミ子の母親が大きく関わっているのではないか?
そう思うと、清佳(娘)が大好きなおばあちゃん=ルミ子の母親の存在も、彼女にとっては「大好きなおばあちゃん」以外の意味を持つのではないだろうか、と考えてしまう。

母性について

愛を与えようという思いの根底には、誰かから愛されたいという想いが共通してあるのではないかと思った。

以前読んだ「燕は戻ってこない」も「母性」も、母親と娘の関係性や「娘から母親へ」変わっていく女性の心理が描かれている。

女性は生まれながらに母性を持っているのだろうか。
母親になると自然と湧くものなのだろうか。
そもそも母性というもの自体が曖昧なものでしかない。「母性」というものに色々なものを詰め込んで丸投げにしているだけなのではないだろうか。


映画でこの物語がどのように描かれるのか、とても気になる。

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