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「お父にそっくりだねぇ」と言われるのが嫌だった

「ネギがねぇ!ネギが入ってない味噌汁なんて味噌汁じゃねぇ!今すぐ買ってこい!」
夜の9時。父に言われて母はネギを求めて家を出た。

当時はまだ24時間営業のコンビニがそこら中にあるわけでもなく、あったとしても夜の9時にネギは売っていないはずだった。私は、父とみそ汁と一緒に家に残された。

「ネギがないから買ってこい」はこれが初めてではない。ある時は「唐辛子がないから買ってこい」だった。それは月に1度くらいのペースで繰り広げられる夫婦げんかで、小学生の私はもう、そのことでドギマギしたり恐怖で震えるようなことは無かった。だんだん冷めていくみそ汁も父も勝手にすればいいとさえ思っていた。

母はあるはずのないネギを探しに車で出かけていき、父の気が済むまでコンビニで過ごしてから何も買わずに帰ってきた。

父は喜怒哀楽の激しい人だった。楽しむのも怒るのも全力。

小さい時、足首を持たれてぐるぐる回してもらうのが好きだった。テレビでお笑い芸人の加藤浩次がしていたやつだ。でも父は加減てものを知らないから、回しすぎて手が離れて吹き飛ばされたこともある。
当然母は激怒した。

怒りんぼなくせに人を楽しませるのが好きで、突拍子もないことをしては、やり過ぎて失敗する。父はそういう人だった。

母はそんな父とよく喧嘩をしていた。
「ネギがねぇ」と言われて言う通りにしていたのは母が弱かったからではない。面倒くさかったからだ。母は父のことを怖いなんてこれっぽっちも思っていなかったし、実のところ父は母に頭があがらなかったのだ。

母はよく私に「あんたはお父にそっくりだねぇ」と言った。なんてことだ。最低の悪口だと思った。あんな気性の荒いモラハラおやじと一緒にしないで欲しい。私のどこが父に似ているというのか。とんでもない言いがかりだ。父にそっくりだと言われる時、それは私と父とを合わせて悪く言っているのだと感じていた。



地元で就職してから初めて地域のお祭りに参加した。会社で1つの連として踊りに参加していた。新卒の私はジュースを運んだり山車をひいたりと、先輩たちの迷惑とならないよう動いていた。

祭りは終盤に向かっていた。
しばらくすると何やら先頭の方が騒がしい。見に行ってみると、連長が酔っ払いに絡まれていた。
「アンタ連長さんかい!踊りに腰が入ってねぇんだな!おれぁこの踊り50年も踊ってるからよぉ!こうやるんだよ!見てみな!」
ーー父だった。泥酔した父が連長を捕まえて、踊りの手本を享受していたのだ。

悪夢を見ているようで眩暈がした。キーンと耳鳴りがして祭りの音が聞こえなくなった。

父はわざわざ私が入社した会社の連を探して来たのだ。そして私を見つけると「おぅ!これ、俺の娘!」と満面の笑みを浮かべていた。楽しくて仕方がない、という顔だった。
最悪だ。この世の終わりだ。信じられない。


父を捕獲して連れ出してから、連長である上司に詫びに行った。もしかしたら「変わったお父さんで大変だね…」と慰めてくれるかもしれないと淡い期待が私の中にあったことは認める。


しかし上司は私に信じられないことを言った。
「君とお父さんってそっくりだね。」

父は酒とたばこが大好きだった。そろそろやめたら?と何回も家族で説得したけれど「寿命が縮まってもいいから死ぬまでやめねぇ」と言い張った。そしてその宣言通り、67歳で死んだ。癌と診断されてからも酒とたばこはやめなかった。死ぬ前日までタバコを吸っていた。

父が死んでから5年が経った。私の息子は6歳になった。
息子は喜怒哀楽が激しい。焼き鳥のネギマが大好きで、ある時モモ串を出したら「ネギがない!ネギがない焼き鳥なんていらない!」と癇癪をおこした。

なんてことだ。
笑ってしまった。笑いながら目に涙が浮かんだ。
覚えてないはずなのに、脈々とつながるDNA。

(いや、笑っている場合じゃないかも。女性に夜の9時にネギを買いに行かせるような男は、令和にそぐわない。)


息子を見ていると父を思い出して懐かしくなる。

「アンタはおじいちゃんにそっくりだねぇ」
私はよく息子に言う。もちろん悪口なんかじゃない。何をするのも全力で、誰よりも楽しいことが大好きで。笑うのも、怒るのも、泣くのも全力だ。やりすぎて失敗する。

父の存在が今もここに残っている。そっくりだねぇ、という時の私はどんな顔をしてるだろうか。


母は今も時折、私を見て目を細める。
「あんたはお父にそっくりだねぇ。」
その顔には懐かしさと愛おしさがにじんでいる。


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