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半宝庵(武者小路千家)
「半宝庵(はんぽうあん)」
京都の武者小路千家敷地内に現存する茶室。
七代・直斎堅叟(じきさいけんそう)が安永元(1772)年に焼失した官休庵を再建する際につくった「一方庵(いっぽうあん)」という茶室が始まりで、何度かの焼失を経て半宝庵と名を変えてきたのがこの茶室だそうです。
全体四畳半(正方形)に桝床を組み入れ、床脇の一畳を点前座にしています。
炉は台目切りで真っ直ぐな中柱と袖壁を立て、
国宝茶室 密庵(京都大徳寺 龍光院)
「密庵(みったん)」
国内に現存する国宝茶室(待庵・如庵・密庵)の一つで、江戸前期の茶人・小堀遠州の作。
密庵のある龍光院は京都大徳寺の西南の端に位置し、特別公開も含め一切の拝観を行っておらず完全非公開となっています。そのため、他の二つは見ることができることから「最も見るのが難しい国宝」とも呼ばれます。
密庵は現在、書院の北西隅に組み込まれていますが、当初は独立した建物であったそうです。
芭蕉庵(京都 金福寺)
「芭蕉庵(ばしょうあん)」
京都の金福寺にある茶室。
元禄年間(1688年~)に俳聖・松尾芭蕉(1644~1694年)がこの庵に滞在して句をつくったそうです。
その庵は荒廃し形も無くなっていたところ、江戸中期の俳人・与謝蕪村(1716~1784年)がその荒廃を惜しみ一門と共に再興したのが、この芭蕉庵と伝えられています。庵の近くには蕪村のお墓もあります。
内部は三畳台目に踏込床形式の台目床で
鬼瓦席(京都 高台寺)
「鬼瓦席(おにがわらのせき)」
京都の高台寺にある茶室。
境内の方丈、書院の背後に位置し、遺芳庵とは露地を隔てて向かい合うようにして建っています。
江戸初期の豪商・灰屋紹益(じょうえき・1610~1691年)(※本阿弥光悦の甥を父に持ち、幼少期に豪商・灰屋の養子となった)遺愛の茶室と伝えられます。
この茶室はもとは遺芳庵(※紹益の妻・吉野太夫(1606~1643年)遺愛の席と伝わる)と同じ
遺芳庵(京都 高台寺)
「遺芳庵(いほうあん)」
京都の高台寺にある茶室。
江戸時代前期の芸妓で、灰屋紹益(じょうえき)(※本阿弥光悦の甥を父に持ち、幼少期に豪商・灰屋の養子となった)の妻であった吉野太夫遺愛の席とも、紹益が太夫を偲んでつくった席とも伝えられています。
境内の方丈、書院の背後に位置し、同じく紹益遺愛の席とされる鬼瓦席と露地を隔てて向かい合うように建っています。
元は鬼瓦席とともに紹益邸内にあったも
松関軒(京都南禅寺 天授庵)
「松関軒(しょうかんけん)」
京都南禅寺の塔頭・天授庵にある茶室。
明治35(1902)年、壇家の福本超雲氏の寄付により建立されたそうです。
千利休唯一の遺構とされる妙喜庵の待庵(国宝)写しの二畳隅炉となっています。
躙口や床の大きさなど各所の寸法、落掛の床柱近くの皮目や方立のはつり目など、待庵の姿をよく写しているそうです。
一方で、炉の大きさは一尺四寸角(約42.5cm)に改められてお
燕舞軒(京都建仁寺 大中院)
「燕舞軒(えんぶけん)」
京都建仁寺の塔頭・大中院にある茶室。
大中院の書院の西側に位置し、宝暦年間(1751~64年)頃の住職・白堂笠津(はくどうりつしん)が表千家七代・如心斎天然について茶を学んだ頃に造営されたものとされています。
はじめは四畳半に炉を切っただけであったそうですが、後に現状の形に改造されたようです。
内部は三畳中板入りで炉は向切り。西から東へと点前座一畳・中板・客座一畳
国宝茶室 待庵(京都妙喜庵)
「待庵(たいあん)」
京都府大山崎町の妙喜庵にある茶室。
待庵は現存する最古の小間席であり、多数の茶室遺構の中でも類を見ない古い手法や部材を留めています。
江戸時代以来、侘び数寄の大成者・千利休の唯一の遺構と伝えられ、天正10(1582)年に豊臣秀吉が明智光秀と戦った山崎合戦の際、秀吉が利休に命じて造らせた茶室であるともされています。
書院との接続状況から現地で建造されたものではなく、別の
松向軒(京都大徳寺 高桐院)
「松向軒(しょうこうけん)」
京都大徳寺の高桐院にある茶室。
戦国時代に智将として名を馳せ、茶人としては利休七哲にも数えられる細川三斎の好みと伝えられます。
三斎は、七哲の中でも利休の茶を最も忠実に継承したとされています。
その時代の茶人が多数参加した豊臣秀吉主催の「北野大茶会」において、三斎は影向(ようごう)の松のそばに茶室をつくったそうです。
その茶室は茶会後、移築されたと伝えられま