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バス乗り場のおじさん

岡山桃太郎空港に向かおうと、倉敷駅北口のバス乗り場を目指した。

倉敷駅からの直行バスに乗れば、35分ほどで空港に着くことができる。

Googleでバス乗り場の番号を調べる。2番乗り場らしい。
スーツケースをゴロゴロと引いて歩くと、大きく「2」と書かれた看板が見える。あそこだ。

乗り場には、まだ乗客らしき人は誰もいなかった。
その代わり、一人のおじさんがいた。

そのおじさんは、どうやらこのバス乗り場で案内の仕事をしている人らしかった。

スーツケースを持った私と母を見て、「空港いきます?」と聞いてきた。
「そうですー」と答えると、この後は15分後にバスが来ること、そのバスの運行会社ではICカードが使える(つまり、東京からきた私たちでもPASMOやSUICAが使える)ということ、ICカードは乗る時と降りる時の2回タッチしなければいけないということ、スーツケースはおじさんが預かってバスに乗せておいてくれるということ、をサクッと教えてくれた。これ以上必要な情報は、何もなかった。私たちは「ここで待ってればいいんだ」と安心し、おじさんの存在を忘れて、ぺちゃくちゃとおしゃべりを始めた。


このおじさんは、乗り場のすぐ横にあるベンチに座り、タバコを吸っていた。私たちを見つけて立ち上がり、先の事項を一通り話している時も、タバコを片手に持ったままだった。座っていたベンチには、競馬新聞と缶コーヒーが置かれていた。

そんなおじさんを見て私は、1ミリも不快に思わなかった。むしろ、少し好意的な印象とともに、私の記憶の中に残っている。なんでだろうか。


私たちが乗り場に着き、そのおじさんがタバコを指に挟んだまま案内を始めた時、私はクスッと笑ってしまった。「え、タバコ、しまわないんだ(笑)」と。

あの状況において、私たちは「お客さん」であり、あのおじさんは「サービスの提供者」であった。それは間違いないのだけど、なぜ私は、あのおじさんがタバコをしまうのが普通だ、と、一瞬でも思ったのだろう。一体私は、何を求めてるんだろう。


東京で生活をしていると、「ちゃんとしている人」ばかりをみる。

「ちゃんとしている」というのは、この「バス乗り場で案内をする人」で例えるとすると、
・何らかの制服を着ている(バス会社?鉄道会社?か何かの)
・お客さんがいようがいまいが、ずっと立っている
・タバコを吸っていない
・缶コーヒーを飲んでいない
・競馬新聞を読んでいない
・乗り場横のベンチに座っていない
と、こんなところだろうか。

詳細に書かれた案内板を見て、何かわからないことがあったら、この「ちゃんとしている人」に話しかけて教えてもらい、列に並ぶ。それが東京での、過ごし方。


・・・で、この「ちゃんとしている」って、要る・・・・?

倉敷駅北口のバス乗り場で出会ったおじさんは、タバコも吸ってたしベンチに座りながら競馬新聞読んでたし缶コーヒー飲んでたしよくわかんないジャンパー着てたけど、丁寧にバスの乗り方もいつ着くかも教えてくれて荷物のことも見ててくれて、正直、何の不自由もなかった。ICカードがどうとか、そういう細かいところにも行き届いた情報を与えてくれた。そして何より、私たちに「ちゃんとしないでいい」空気をくれた。

なんとなくだけど、東京で過ごしている毎日の中で、「ちゃんとしている」人たちに囲まれている中で、私たちは無言の「ちゃんとしなきゃいけないよプレッシャー」を受けている。

仕事の時。初対面の人に会う時。初めての場所に行く時。私は特に、「ちゃんとしなきゃ」と思う。

この服装は、あの場所にそぐわない格好では無いだろうか。この色は、派手過ぎないだろうか。メイク直しをしなきゃ。髪の毛は、明る過ぎないだろうか。電車に乗る時だってそうだ。私の持っているバッグが邪魔になっていないだろうか、椅子のスペースを取り過ぎてはいないだろうか。集合場所はここで合っていただろうか。きちんと挨拶ができただろうか。喋り過ぎてはいないだろうか。変なことを言っていないだろうか。不快な思いをさせていないだろうか。今、お手洗いに席を立ってもいいのだろうか。このタイミングでお茶飲んでも大丈夫だろうか。

そんな些細なことを幾度も幾度も気にして、ふと気がつけば、疲弊している自分と、そんな自分が他人から見て「なんの印象にも残らなかった人」になっていることに気がつく。

「好いてもらいたい」と思って努力したことは、自分のことを助けてはくれなかった、と虚しく思うことは何度もあった。「ちゃんとしなきゃ」しか考えていなかったら、誰も本当の私を知ってはくれない。私はそのことに気付きながらも「ちゃんとしなきゃ」から抜け出せず、「誰も私のことを理解してくれない」と嘆く。「ちゃんとする」って、何なのだろう。


「ちゃんとする」って、そんな簡単なことじゃない。そして、そこまで気にしなくたっていいんじゃない?と、今は思う。

ちゃんとしてなくたって、あのバス乗り場のおじさんみたいに、人の役に立つことはできる。自分を削らずに働くこともできる。そしてその方がなぜか、人に愛されたりするもんだ。

タバコを指に挟みながら一生懸命にバスの乗り方を説明するおじさんを思い出しながらクスッと笑う私は、また新しい「生き方」を発見した気がして、気持ちが楽になる。競馬、当たるといいね。

Sae


「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。