ひとを「消耗」させる組織で、真の「成功」は存在しないと思う
仕事や何かで、自分や、もしくは誰かが褒められているところをみたとき、複雑な気持ちになることがある。
それは嫉妬や謙遜といった類のものではなく、そこに「ひとのことを都合良く使う人」の存在がチラチラと見えることが、ときたま存在するから。
本当によく聞く話だ。どこにでもあること。
例えば、チームで仕事をしていて、何か大きなプロジェクトに取り組んでいる時。
メンバーが5人いて、その中でもAさんが頭一つ抜けて聡明で優秀で責任感もあり、仕事を迅速かつ丁寧に完璧にこなすひとだったとしたならば、きっとチームリーダーはAさんに一番重要な仕事を任せるだろう。そして、そのAさんは期待に応える仕事をする。
BさんとCさんが、自身の仕事においてスケジュールに遅れをとっていたとする。きっとチームリーダーはAさんに、BさんとCさんのヘルプやサポートをするように指示するだろう。チームリーダーは、Aさんにそれだけの能力があることを知っている。もしくは、リーダーが言わなくとも、Aさんは自ら手を差し伸べるかもしれない。プロジェクトを成功させるための責任感を、誰よりも真摯に感じているから。
Dさんがとんでもないミスをしでかしたとしよう。Dさんを責めることなく、AさんはDさんのミスのリカバリーをしようと必死に動くだろう。なぜなら責任感もあり、それだけの能力も兼ね備えているから。
そうして進んだプロジェクトは、なんとか成功を収める。
チームリーダーは、プロジェクトが成功したことを大いに喜び、「プロジェクトは大成功だった」と振り返る。
リーダーは、打ち上げか何かの宴席を設け、メンバーを労うだろう。
BさんとCさんは「Aさんのおかげでスケジュールになんとか間にあわせることができたわ」と感謝の意を伝える。Dさんは「あのミスをリカバリーできたのは、君がいたからだ、ありがとう」と言う。リーダーは「Aさん、君がいたおかげでプロジェクトは大成功だ、本当にありがとう」と労いの言葉をかける。
そして、翌日から、またいつも通り、業務がスタートする。次のプロジェクトに配置されるのかもしれない。何れにせよ、仕事がないことはないのだから、何かしらしているのだろう。
この時、私は、これではAさんが報われないと胸が苦しくなる。
言葉はもちろん大事だ。言葉がないのは、論外だと思う。けれど、「ありがとう」「君のおかげ」で解決するだけの感情しかAさんが抱いていないと思うのなら、それは想像力が欠如していると思う。
プロジェクトが成功したのだからいいじゃないか、という意見もわかる。これはチーム戦であり、その結果は「プロジェクトが成功したかどうか」が全てであることもたしかで。
でも、きっとそのうち、Aさんはいなくなる。
自分のことを、消耗させないで済むところへ。都合良く使われなくて済むところへ。
プロジェクトの裏でAさんが行った努力を、誰が正当に評価しただろうか。BさんよりもCさんよりも熱心にBさんとCさんの仕事を理解し勉強し、やっとの思いでフォローしているのかもしれない。Dさんのミスのリカバリーのために費やした残業時間で失われた、睡眠時間や、自分をケアする時間や、家族とのコミュニケーションの時間を、誰が補填してくれるのだろうか。Aさんはサイボーグでも天才でもなんでもないのだ。
BさんやCさんやDさんが「Aさんがいるからなんとかなるはず」と一ミリでも思っていなかったといえるだろうか。もしかすると、リーダーが一番そう思っていたのかもしれない。「Aさんがなんとかしてくれるから大丈夫だ」と。
これを、私は「消耗」と呼ぶのだと思う。
自分のことを「消耗された」と感じた人は、どんな情も捨てて、その場を去ると思う。遅かれ早かれ。
結果オーライ、だったら「それで良い」のか?「all OK」なのか?
私は、Aさんをケアする人が必要であり、Aさんに頼ることなくプロジェクトが成功することが「真の成功」であり、それを含めて、事後であってもBさんCさんDさんを教育することまでがプロジェクトであり、それらに気づいていたとしても「何とかなっている」ことに甘んじ、後回しで何もアクションを取らないリーダーを一番軽蔑するし、リーダーとは呼ばない。
多くの企業がこんなものなのだろう、と、先日聡明で美しい友人たちと話していて思ったし、今朝の台風で世の中で行われている対応を見ながら、同じようなことを、ふと思ったのだった。
台風の実害のみならず、気圧で体調を崩す人もいるでしょうし、ストレスフルな方はどうかご自愛くださいね。
Sae
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