能動と受動の融合

二元的な感覚が解体されていくと、「うーん、こうなるか……」と、言葉で説明することが困難な理解にぶち当たる。
今回テーマにしている、能動と受動が「同じことなんだ」という納得も、「それってどちらもひとつで、どちらから見るかという側面が違うだけで、本当に同じなの」……と体験上説明できるのだが、言葉だけでこうサラッと言って「そうだよね!」と深い理解が生まれるだろうか。

とはいえこれを理解してもらえば、当記事のタイトルも本来「能動と受動の融合」とは言えなくて、「元々ひとつなのを、私たちが別々に認識していたので、認識の仕方を元に戻す」という意味になる。

私たちは二元的な体験によく慣れている……私とあなた、私と何か、というのも二元的な体験だし、能動と受動というように動きや性質に対しても二元的な見方を適用している。

これは言うまでもなく「他と分離している独立した個」があるという前提があるからで、この前提が無効になってしまうと別の世界が見えてくる。


意外かもしれないが、能動と受動が「同じもの」であるという実感は、日常で体験する「自分、対、外の何か」という関係よりも、「自分、対、自分」という内での関係によってこそ進むのだ。

人によってはこれを創造主との関係高次の自己との関係……という風に様々な用語を使って「自己内での真我との関係」として説明するだろう。

受動であることが能動、能動のつもりで受動

自己内での、この関係を意識すると、まさに「受動であることが能動、能動のつもりが受動」になっていることがわかる。

たとえば、あなたは内から(高次の自己から)直観やメッセージを「受け取った」と感じることがあるだろう。でも、「受け取った」というのは視点の問題で、それこそがあなた自身である「私」からの能動的な働きだ。

逆に、「能動のつもりで受動」になるのは、私たち自身が皆この世界の発信装置のような存在だからである。それでいて、
通常、この世界での私たちの知覚は「逆向き」になっている。

つまり、自分では能動的に動いていると思っているとき、実は以下のことが起きている。

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