手を引かれたら、出るときだ

今年はあらゆる意味で私にはCompletionの年で、これで人生が終わるわけでも、今年という西暦上の年が区切りなわけでもないけれど、明らかにこの人生で意図してきたあるポイントに達した、ポータルが開いたという手応えを感じている。

まだこの後に様々なことがあるからこそ、人生が続くのだが、とりあえずの「Mission Complete」を確認できたという感じで、通常ない喜びに打たれている。
やっとここから、別のEra(時代)のスタートができると言ってもいいかもしれない。

そうした自分の感慨に正直になれば、前回の記事◆「10月のテーマはSweetで☆知覚と世界」のはじめの方で、
『考えてみると今年は、気の置けない友達と会って他愛ないおしゃべりをするような機会も減っていた。これは多くの人がそうだと思うけど。
特に用事がなくてもそういう人との時間をとることそのものが、心の華やぎやリラックスに繋がったりするよね。』
……と書いたことは本音ではなかった。

私は今年の状況を、自分にとっては調和していると受け取っており、何も「不足感」を抱いていないからだ。
外的なアクティブさはなくても、なんて実りの多い時期なんだろう! との充実を感じてもいる。

仕事面でも、プライベートでも、自分の下していた決断が今年の外的状況に奇妙にマッチした形だった。

仕事面では昨年の時点で、定期開催していた講座を終了することや個人セッションを閉じることを決めていたが、それは私自身の人生の流れに従って、ただそうしたいと感じたからしたことだった。
また、前回記事でふれた、私生活で友達と会う機会が減ったことについても、自分がそうしたいと感じなかったために、積極的に機会を作らなかっただけのことだった。

というのも、今年はソーシャルな関わりを最小限に減らして内に集中したい感覚があったし、これは年々進行していたことだが、自分の心からの情熱や興味を今まで通りには友達とシェアできる感じがしなくなっていた。

友達への愛情や親しみは以前と同じように持っていても、仕事面と同様に、私の関心事の内部構成が変化し切ってしまったからだ。

ただ、どんなに久しぶりに会った友達でも、まるで時間の経過がなかったかのように楽しく会話できることはよくあるし、お互いに独自のルートを通って似たような変化が起きていて、いつのまにか新たな共通の考えや関心に行き着いているということすらある。
だから今の時点で、自分の関心や情熱をシェアできない感じがしているのは、今後もずっとそうだと決め付けられることではない。

いずれにしても、今年の私が自身の内に集中したかったことは事実で、直接の交流を推奨しない社会状況は特に自分の害にならなかったどころか、ちょうどよくもあった。

あたかも集合的に同じ状況を体験しているように見えても、ひとりひとりにとってそれが何を意味するかは異なる。
あなたが自分の体験から何を引き出すかは、あなた次第だ。

どんな状況も出来事も、それ自体「ネガティブ」ということはありえない。
あなたを阻害できるのはあなた自身の心だけであり、外にあるように見える何かではない。

私の視点からは、ウィルスに関連した今年の社会状況は人々を内面へ向かわせるというポジティブな効果を引き出し得たと感じている。
それと、もうひとつは以前記事で書いたが、人間の活動だけに目を注ぐことをやめて、自然界へ目を向ける機会として有効だったと思う。
☆関連記事☆
「地球を体験している霊的存在であるあなたが今できること」
「外向きな『日常』から目を向け直す【あなたの人生を生きることと、内なる力】」

あなたは、状況や出来事を、自分の意思とは関係なく起こるものだと考えていないだろうか。
自分の体を「自分の体だ」と思えるように、あなたの体験する状況も世界も「自分だ」と認めているだろうか。

あなたの直接体験している日常に比べると、社会情勢などの集合的状況は、自分自身の延長とは捉えにくいかもしれない。
すると、「世の中がこうなのだ」と考え、何か抗えないものの「囲いの範囲内で」果たして自分は今何ができるのか、と考え始めるかもしれない。
でも、それは前提からして幻想なんだよ。

私の場合、前回の記事になにげなく書いた部分がきっかけで、現在の自分にとっての充実は過去と全然違っており、あえて過去のあり方に戻ろうとする必要はないことを実感した。

今が、ちょうどいいのだ。

でも、そうして束の間ぬくぬくしていると、また「次の導き」と言えるものがやってきて、その衝動を無視するか、新たな冒険へ飛び込むかの二者択一を迫られる。
人生において次に開く扉、「チャレンジ」がなくなることはないのだ。

手を引かれたら、出るときだ

さなぎが、外に出るのが怖いからとまゆの中でいつまでもぐずぐずしていたら、やがて機を逃してまゆの中で死んでしまうだろう。

準備が整っていないうちにやみくもに動くことが無茶なら、内からの促しが最大になっているのに無視し続けることも無茶だ。

私たちは生きている限り、新しい経験、新しい視点に導かれる。
その変化は「これまでのあなた」からすれば、足がすくむほどの冒険になるかもしれない。

「あなたを助ける霊的ヘルパーの気持ちになってみよう」で語った通り、あなたの内と、あなたをサポートする存在たちは「あなたを促し、案内役として手を引く」のだが、何よりもあなた自身がそれに気づいて「自ら出る」必要がある。
誰も、あなたをむりやり動かすことはできないからだ。

どうにもならなくなって苦しくて苦しくて、わらをもつかむという「出方」もあるけれど、そうなる前に素直に、果敢に行動することもできるのだ。
そのための時間は十分に与えられている。

どんなに自分の安全ゾーンの外に一歩も出たくないほど怯えていても、同時に内からは「かえってこのまま変化しないことの方がつらい、限界だ」との訴えが聞こえてくるはずだ。

チャレンジがもたらすもの

堅く安全な殻の中の自己は、居心地のいい心理的環境から出ないまま、すでに多くのことを達成してきたと思いたがる。
素晴らしい概念を聞いたり読んだりすると、そのエッセンスを味わうだけで自分で何かがわかったという気持ちになる。

けれども、「それを生きること」へと導かれたなら、どうだろう?

安全の殻の中で悠々としていた自己は、蒼白になる。
あろうことか、「実際に自分の人生で」そこに足を踏み入れるなんて! と。

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