地球を体験している霊的存在であるあなたができること
近頃は、人々が活動を自粛したことで、自然界の美しさが取り戻される現象が起きているようだ。
世界のあちこちで、空気や水が澄み渡ったり、普段よりも動物が姿を現したり。そうでなくてもうちの周辺の鳥たちは相変わらず楽しそうで、そろそろ小鳥たちも繁殖期、かわいく美しい「さえずり」を聞くことが多くなった。
(カラスの繁殖期はもっと早くて、2月にこちらですでに記事にしている。
◆「あなたがどう生きたいかを、生物たちが教えてくれる」)
毎朝楽しそうに、元気いっぱいに鳴く鳥たち。騒々しいけれども思わず笑顔になってしまうおしゃべり。
私にとって今もっとも身近な「野生生物」といえば、この鳥たちや虫たち、そして植物だ。昨年の夏にはヤモリなんかもしばらく家の中にいてくれた。数日の間、夜の時間帯になると同じヤモリが室内の様々な場所にいて、よく顔を合わせたものだ。
季節を体現する彼らの折々の営みを感じていると、人間が今直面している状況のざわめきが嘘のように思える。
人間の暮らしの充実も大切だが、私たちは今、その充実の真価を見直したり、自然界との調和についてもっと考え直したりする良い機会を与えられて(創造して)いる。
自然界の調和を犠牲にして成り立たせる充実があるとすれば、それは私たち自身を犠牲にしているのと本当は同じである。
そしてまた、今ウィルスの感染拡大を防ぐためという理由で「やむをえず」取られているライフスタイル、働き方、それらが人によっては「自分が何を望み、何を快適と感じるか」を深く考え、認め、選択し直すきっかけになるかもしれない。
自分のライフスタイルを真剣に見つめ、選択をする
たとえば「経済」を中心に物事を見ると、今は危機的状況かもしれないが、「自然界への影響」を考慮すると、普段の私たち人間のライフスタイルがどれだけ「過剰であったか」を考えることもできる。
便利さを追求すればきりがない。だいぶ前からコンビニエンスストアの営業時間、店舗によってはニーズが少なく負担の大きい深夜営業が問題提起されていたように、現在私たちの「やむをえず」こうなっている状況の中には、「本来もっと早くからこうしてもよかったのでは」と思うケースも含まれている。
通勤の満員電車もそうだ。私もかつて経験したが、すし詰め状態のままで、朝の時間帯には前の電車がつかえてのろのろ運転になってしまうことも定番だった。毎日繰り返されるあの通勤のストレスはいかばかりか。
今、在宅で仕事をしなければならない状況になってみて、「なんとか工夫をすればそうできるものだ」とわかった業種もあるかもしれない。
完全にリモートワークにすることは難しくとも、月や週の決まった時間だけ通勤すれば十分だという発見もあるかもしれない。
人は「必要性」にかられるまで、動かないことがある。
「そうしなければならない」状況に追い込まれてみてやっと、実行することがある。
完全に現場に行かなければできない仕事、直接人と人とが顔を合わせていなければできない活動も多々ある。それらは別として、今後も働き方が柔軟に選択できるようになれば、結果としてこれまで「そういうものだ、しょうがないものだとあきらめていた」働くという観念の中で改められるもの、解決するものが続々と出てくるだろう。
そのときに要となるのは、社会がどうするか、勤め先がどう決断するかなどではなく、
「あなたがどんな人生を生きたいか、今どのように暮らしたいか」
を知り、選択するということなのだ。
「今」とつけたのは、あなたの望みや心地よさは、変化するあなた自身に伴って変わるからだ。
何かを一度決めたらずっとそれが最善、というのは思い込みで、常に自己を観察し、変化を認める必要がある。
それは仕事や社会的活動に対してだけではない。
あなた自身の日々のライフスタイルも、そこに含まれる。
本当は要らないと思っているものはないだろうか。
しなければならないと思い込んで、負担になっていることはないだろうか。
逆に、本当はあなたに必要なのにしていないこと、取り入れていないことは。
人間関係だってそうだ。
あなたが心底一緒にいたい人と一緒にいるだろうか。それとも、仕方がないから、妥協して、なんとなく、誰かと一緒にいるのだろうか。
この人生における自分の生命が有限であることを思い出せば、私たちは真剣になる。真剣に、日々の選択を重ねようと思う。
非常事態にだけそうなるのではなく、いつもそのようであっていいのだ。
誰もが、この人生に死という「終わり」を持っている
生命の話題となると、世間では急に深刻なトーンを帯びがちだが、繰り返し私は「この人生における私たちは、誰もが必ず死ぬ」と伝えてきた。
いや、繰り返し伝えてきたなんて改めて言うまでもなく、皆知っていることなのだ。
だが、死を忘れがちな人も多く(特に現代社会では)、そうした心のあり方でふいに死を想起させる体験があると、何か恐ろしいものに出会ったようにパニックになることがある。
ここではっきりさせておきたいのだが、「死を恐れること」が生命の尊重に繋がるかと言うと、残念ながらそうはならない。
むしろ、恐れから「サバイバル・モード」に入り、自分を守ろう(生き延びよう)という考えが働き、結果として人は「分離」を強めてしまう。
私たちは「ひとつの自己」として調和した状態にあって初めて、何が適切かがわかるし、物事を正しく見つめることもできるのだから、本当の意味での「サバイバル」を考えれば、実はそれ(恐れの状態)は不適切な状態と言わざるをえない。
しかし、恐れによるサバイバル・モードは、多くの人間にとって「本能」や「体の働き」に直結しているせいでそうなるのだと錯覚を起こすくらい、根深いものだろう。
自分を「肉体・人間」と見なしている間は、それは抑えがたいものとなる。
では、その状態のままで、恐れの反応を起こしている「根本」を無視して、恐れだけに蓋をしたらどうなるだろうか。
恐れは抑圧されるだけで消えてはいない。一見表に出ていないが、変わらずに本人のエネルギーを注がれ、維持され、本人の選択に影響を与える。
あなたは実のところ、「この人生での終わりはあるが、存在としての終わりはない」者なのだから、根本にある錯覚をほどかなければならない。
「恐れ」という反応は、あなたの内に、錯覚(誤った信念)が現存していることを教えてくれているのだ。
錯覚を手放し、正しい基盤に依って生きることを「目覚め」と呼び、私は2019年2月のブログ記事で、興味のある方がより理解しやすいよう以下の形にまとめて説明した。
◆「目覚め(解除)の段階と、創造のスタートライン」
霊的存在としてのあなたはこの人生という体験よりも広大である。
死は終わりではない。
しかし、いくらそれをお題目のように唱えても、あなたが奥底で違うことを信じているのなら、効力はない。
ここで求めているのは「知識としての理解」ではないのだ。
地球における霊的存在としてのバランスの取れたあり方
思い出そう。
地球体験中の霊的存在として、バランスの取れたあり方とは、
ここから先は
¥ 800
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?