外向きな「日常」から目を向け直す【あなたの人生を生きることと、内なる力】

ウィルス関連の状況によって生活が変わって、「早く元の日常を」という声を耳にすることがある。そこに託された思いは理解できる上で、私は全面的には同意することができない。なぜなら、ただ元の日常に戻ることは、この機会を無駄にすることだからだ。
意味もなく起こる危機なんてひとつもない。

今、私たちは各々の意識を見つめることで、蓋をしたり目をそらしたりしてきた集合的「不調和」を解決するチャンスなのだ。逆に言えば、こんなにもわかりやすい機を無視したら、もう地球規模の転換はないかもしれない。

それに「日常」とひと口に言っても、今の状況に内心ほっと胸をなでおろしている人、これまでの生活と全く変わらない人、「見かけ上の大多数」とは異なる日常を持つ様々な人たちもいるはずだ。
その人たちの本音が、大っぴらに真剣に取り上げられることはあるのだろうか。本人たちが声を発しない限り。

「普通」とは何だろう。
人それぞれ自分の思い描く、あるいは実際に経験してきた「普通の日常」がある。

現在の状況が象徴していることは、私には興味深く見える。
たとえばこの状況は、現代社会の「外へ、外へ」の思考に傾きすぎたあり方をバランスしている。
まるでショック療法的な強制力を持つようにも見えるが、それすらも私たちの意識が起こしていることなのだ。

だから、見かけ上のウィルスの出どころなど物理的原因探しにやっきになることは本質を取り違えているし、「外側から降りかかってきた災難」を皆で我慢してやり過ごそう! という姿勢も、状況の根本を見ていない。

私は昨年から、これまで以上に「生きること」と「働くこと(報酬のあるなしに関わらず、様々な活動を含む)」の純粋なあり方について考えていた。
そのことにまつわる余計な観念を取り除かなければ歪みはなくならず、社会の、人間の苦しみの根本解決はできない。
今、集合的な規模で、その見直しの機会が芽生えていると感じている。

生きることと、人生の目的に結びつく仕事

私は昨年まで1、2ヶ月に1度ペースの定期開催の講座を行っていたのだが、自分の心の導きに従い、2019年11月末の講座を最後に定期開催を終了した。

そこには昨年後半あたりから書くことへ自分の仕事を移すと決断した流れがあって、講座以外の、スピリチュアルカウンセラーとしての他のメニューも順次閉じていったのだ。
現在のような社会的状況を予知していたわけではないが、ただ自分の本心と直観に従って仕事の形態を変えていった結果、今まで講座や個人セッションで伝えていたことと共通の本質を、今は書くことで形にし続けている。
(仕事内容の変更について具体的に書いた、昨年の関連記事はこちら。
「変化の時♪ 仕事の話と、個々の現実の色合いが明確になっていくこと」
「オモテで語る、ウラ話。【芸術家・学者成分濃いめの者が、講座を開催し続けて気づいたこと】」)。

そのように定期開催は終了していた講座だが、昨年の時点では来年(今年のこと)どこかのタイミングで、一回だけ開催しようかと検討していたテーマがある。それが、「生きることと働くことの本質」についてだ。

現代社会に生まれた私たちの多くが共通して身につけ、個人個人が自分なりの定義も持っている生存と、仕事などの活動にまつわる根本的誤解を各々が自覚して白紙に戻すための講座を考えていた。

昨年の時点では私自身が仕事内容を変える経験を通過している最中だったので、少し時期をあけて、自分で完全に消化してから講座にするつもりでいたのだ。教える内容を自分自身が「生きていなければ」教えられないし、言葉ではなくエネルギーを伝えることができないからだ。

結論を言うと、今年になってみて総合的に判断して、講座の開催という形はとらないことに決めた。
引き続きnoteで色々な記事を書きながら、同テーマのエッセンスを混ぜ込んでいくつもりでいる。この記事も、そのひとつだ。

「生きること」を考えるとき、現代社会においては、私たちが必要なものを得るために様々な場面でお金を共通手段として使っているのは事実である。
だが、どんな人も、お金を稼ぐために生きているのではない。
手段と目的を同一視することは、悲劇を生む。

シンプルに言って、あなたにとってお金を得る(あるいは維持する)ことが「第一目的」に来る活動や仕事は見直した方がいい。それはあなたのあり方を大きく歪ませる。
なぜか? 自分という存在を取り違えているからだ。
あなたの生きる目的を忘れているからだ。

目的とは——誰もに共通して言えることは、こうだ。
人間は「肉体の生存を維持するため」に生きているわけではない。

ドロップアウトは、ドロップアウトではない。あなた自身を生きることを誰も邪魔していない

すでに書いたように、現代社会では「外へ、外へ」と向かう活動に重きを置かれることが多かった。
内で何を行っているかは、軽視されたのである。

形として見えるものが尊重され、それを構成する動機や思いは無視された。
果たして、形だけこなしていれば、それで十分なのだろうか。
お金を沢山稼げていれば、成功なのか。

そうした「外向き」な価値観に基づいて特定のスタイルが手本にされると、そのレールに沿えずに「ドロップアウト」する人たちも多く出た。
あるいは、ドロップアウトする寸前で我慢しているが、内ではとっくに消耗して自分でなくなっている人たちもいる。

しかし、形が、外面が保たれていれば、まだ大丈夫なはずだと考えるほどに病んでしまう場合もある。
ウツなどの、その人自身の内からの明らかな叫び声ですら、「誰でもかかる心のカゼ」と定義されたり、薬で治る「一時的不調」と扱われたりすることがある。そして再び同じレールに向かうことが「回復」だと奨励されることすらある。

一体何のために、そんなにも「形」を保つのか。
社会の歯車として「正しく」機能するように、そしてそこから外れなければ自分の人生にも「合格印」が押されるかのように、錯覚させられている。

仕事そのもの、活動そのものは、どれも中立だ。
それ自体に意味や良し悪しはない。
つまり、あなたの人生に何が必要で、どんな生き方をしたいかは、あなたがサボらずに自分で答えを出さなければならない。

誰もが自分の人生を生きる力を持っている。自分の心に沿って現実を創る力を持っている。
その力に差はない。ただ、そうしていいのだと信じられるかどうか、自分の決断に価値があるとわかっているかどうかだ。

「外へ、外へ」の風潮や、誰かに提示された生き方を「おかしい」と思い、自分が無理をしていることはわかって、精一杯抵抗をする人は沢山いる。
けれども、抵抗したり逃げたりする段階ではまだ、抵抗しているその対象を信じているということなのだ。
自分自身のことを信じられない人は、堂々と生きられない。可能な限り社会から逃避したり、引きこもったりすることができたとしても、どんな暮らしをしていても、結局そのままでは心の中の苦しみはなくならないのだ。
なぜなら、苦しみの「元」は、外側にではなく自分自身の内にあるからだ。

私たちを集合的に見た場合、そのような苦しみは、社会の生み出した歪みだと言うことももちろんできるだろう。
けれども、社会が悪い! 今の世の中が悪い! と思っている間は、どんな人の助けになることもできないし、そう思っている人自身も変われない。

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