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『お母さん食堂』問題について

 今回は、コラム回。
 以前、話題になったニュースを取り上げたい。

 記事では、問題の経緯とその後のファミマの対応について書かれている。

 簡単に説明するとファミマのお惣菜PB「お母さん食堂」シリーズについて、女子高生からジェンダー的な視点から問題視、抗議の声が上がった。
以下、記事から引用する。

2020年末に女子高生らによって立ち上げられた「ファミリーマートの『お母さん食堂』の名前を変えたい!!!」との署名活動は話題を呼び、結果的に7561人の賛同者が集まった。

立ち上げた女子高生は、「お母さんが食事をつくるのが当たり前」というアンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)を助長しかねない、とBusiness Insider Japanの取材で語っていた。      
               Business Insider Japan  10/21(木) 16:02配信

 要するに、店舗が多く、影響力の強い大手コンビニチェーンが「料理は女が作るもの」というイメージを助長して良いのだろうか。という話だ。

 私の記憶では、この他にも「シングルファザーの家庭にとっては苦痛」というのも含まれていた気がするが……。

 なんにせよ、この件はSNSを中心に話題になった。

 特にネット上で眼にしたのが批判的な意見の多さだ。
私の周りでも賛同している人はほとんど見受けられなかった。

 曰く、「また言葉狩りかよ」、「こうやってクレイマーが産まれるのか」、「お母さん食堂の方が美味しそうじゃん。何が悪いの?」、「どういう団体に唆されているのだろう」などなど。
まぁ……手厳しい。

 かくいう私も最初は、「面倒な話だなぁ」と思った。


 結果的として、記事のようにファミリーマートは、お惣菜の名称を「ファミマル」に変更して新たに販売を始めた。

 ファミリーマートは、本件のジェンダー問題が名称変更の主な理由ではないとして、PB販売初期の経緯と現在のラインナップに名称がそぐわなくなってきたことが原因と説明した。(これに関しては同意する。「黒酢たれの大粒肉団子」とか絶対お母さん作らないだろ。)

 名称変更のニュースがSNSで流れたときには「ファミマが屈した」という声をよく見たが、今となっては「そういえば~」くらいの話だろう。
ジェンダー問題があったことすら忘れてる人もいるかもしれない。
※さらに名称変更の理由が別だったことを知る人は、どれくらいいるのだろうか。

 私個人は、正直言って「誰だろうと批判するのは自由だけど、対案はあるのかな?」と感じていた。当時、その手の記事を4,5件読んだが見当たらなかったからだ。※ひょっとしたらあったのかもしれません。

 批判だけであれば、小学生でも出来る。
それはもう社会人になると当たり前な話で、当人が高校生であったとしても周りの大人が助言しなければならない話だと思った。

 自分が批判する対象の相手は、その商品でお金を稼ぎ、会社を運営して、従業員を養っている企業だ。そこには会社が費やしたコストがある。
 会社や個人にとって影響力の大きい問題を提起するのだから、それ相応の改善策を提案しないとフェアではないよね、と。
※ひょっとしたらあったのかもしれません。


「自分が高校生だから」ではなく、「相手が社会人だから」と考える目線。
これは他者と関わるときに必要な目線のようにも思う。
※ひょっとしたらあったのかもしれません。


 なお、言葉狩りによる表現の不自由の増長に関しては、私は疑問だ。

 数か月ではあるが、書き手として小説やエッセイ、コラムを書いている。
執筆の過程で老若男女、語る言葉が同じでも印象が変わることを知った。

 これはバイアス(印象、思い込み)が創作の構成要素のひとつであることを意味している。
影のある少年を描く時、「僕は、母の味を知らない」という一文だけで、少年に対しての背景を考え、父親との生活を連想させることが出来る。
(そこに「祖母と暮らしている」となれば、両親がいないことが分かる。「テーブルに置かれた一枚の紙。それがいつもの僕の夕飯だった」となれば、父親との生活がより見えてくる。)


――――読み手と書き手。
両者が持つ言葉への共通のイメージがあってこそ、作品は創り上げられる。
創作物の観点で言えば、創作とは先入観(印象)を外すことは出来ない。


 また、読み手自身の背景が重なると作品の次元は、良くも悪くも上がり、感情移入しやすくなる。失恋ソングがいい例になる。

     失恋ソングは、悲しみを助長するから無くすべきだ。

 こんなことにはならないだろう。
失恋ソングには、気持ちに寄り添う歌もあれば、感傷に浸らせる歌もある。
悲しみを振り切る歌もある。
Official髭男dismさんの『Pretender』とかね。

 人は、創作物を通して他者から支えられることもある。
これは人の人たる所以。そのひとつだと思う。
人は作品を通して前を向くこと、覚悟を決めること、学ぶことが出来る。

 また僕らは創作物を通して、過去の人とも未来の人とも話し合える。

 表現の自由を放棄するという事は、過去の文化や歴史、科学、先人が積み上げた一切を放棄することに繋がる。
それを放棄することなど出来るはずがない。

――――多くの過ちの上に積みあがった現在。
その現在に必要なものが多様性だとしたら、多様性に必要なことは「新しい表現の創造」と「これまでの表現への寛容さ」だろう。


 またLGBTが認知されて以降、オフィシャルな場での性別/性的表現は急速に変化しているようにも思うが、それは時代の流れ、社会性の発展のための「新しい表現の創造と適応」ではないか。
※LGBTは今、拡大を続けて表記が難しくなっている。また、性転換やトランスジェンダーの方の女性競技参加問題などが出てきているが、私個人の見解は、最終的に公では性別ではなく「個人」として扱い、競技は「男女のフィジカル」で区別するべきだと考えている。


 今回、私の中で一番刺さった意見は、
「お母さん食堂美味しそうじゃん。何が悪いの?」だった。

 でも、この表現が批判食らってるんだよなぁと思ったが、やはり「お母さん」というワードは美味しさを連想させる。
しかし、これが「お母さん=ご飯を作る人」というイメージを連想させるという……。(つまり問題だという)
ジレンマが産まれるわけだが、私は思いついてしまった。

「食堂付ければ、何でも良いんじゃないか?」


つまり、こういう事だ。
・お母さん食堂……煮物、煮魚、和え物系、和風デザート系

・お父さん食堂……焼き魚、中華、丼もの、麺類、肴系

・お兄ちゃん食堂……ハンバーグ等の肉類、揚げ物、大盛り弁当系

・お姉ちゃん食堂……サラダやパスタ、洋風デザート系


いっそ、それぞれが食堂になっちゃえよ。暴言


お父さんが、少ないお小遣いの中でやり繰りして作ったこだわりの肴とか絶対美味い。
お兄ちゃんの作ったハンバーグとかメンチカツは、不器用そうだけど箸で割った瞬間に肉汁がこぼれそうでThis is ジューシィ。
お姉ちゃんのサラダは健康的に感じるし、デザートは自然とご褒美感が出てしまう。

 これは美味い。あぁ……絶対美味い。
想像しただけでよだれが湧き出て、震え出す。
分かってそうな奴が作ってると言われたら、それこそバイアスが掛かる。
ついでにお母さんの負担も減ってラクになる。やったね、お母さん。

 力の入った特別なお惣菜の場合は、それっぽい名前を付ければいい。
例えば、中華料理なら「烈さんの~」とかインド風カレーなら「アブドゥルの~」、イタリアンなら「マルコの~」といった感じに……。


 私は、基本的に料理は誰が作ったって良いと思う。
私自身料理をするし、基本的にやれる人がやれば良いと思っている。
相手の事を考えて作って、それで喜んでくれた時の嬉しさを知っている。


 今回の件は、表現について考えさせられた。
自分の創作物に反映していきたいと思う。焼き魚作れないけど。


最後に







    ファミマよ、商機を逃したなぁ。ドヤァ


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