【イニュニック】 星野道夫が持つ文字の力
著:星野道夫
氷を抱いたベーリング海峡、112歳のインディアンの長老、原野に横たわるカリブーの骨――壮大な自然の移り変わりと、生きることに必死な野生動物たちの姿、そしてそこに暮らす人々との心の交流を綴る感動の書。アラスカの写真に魅了され、言葉も分らぬその地に単身飛び込んだ著者は、やがて写真家となり、美しい文章と写真を遺した。
アラスカのすべてを愛した著者の生命の記録。
星野道夫について
大学生だった頃で「旅をする木」という本に出会った。確かインドかそこらを旅した後のネパールか、トルコか、記憶は曖昧であるが確かにその本を旅人から手渡され読んだ。鹿のようなゆるい絵の表紙に、中身もゆるい内容なのか思ったら想像以上に文章が巧みで、ぐいぐいと引き込まれた。
文章は単語の組み合わせによって出来上がるものなのだが、星野道夫は特段難しい言葉を使ってる訳でもなく、ごくシンプルな表現で単語を繋ぎ、気が付けばこれまで読んだ事ない澄み切った文章にのめり込んで行く。彼の作品を全部読みたいと思ったのはそれがキッカケである。
「ノーザンライツ」も「長い旅の途上」も「森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて」も、過去雑誌に掲載された投稿文も、かなり読んだ。それほど、彼の書く文章に魅せられ、ファンになったのだ。
イニュニックもその流れで読んだのだが、一旦、星野道夫という人物について語りたいと思う。
少しばかり私の話を経由するが、2017年の夏に北海道でヒグマの観察員をしていた頃の話をしたい。
その頃は大雪山の懐で熊の観察をする仕事をしていたのだが、私のいた場所は「ヒグマ情報センター」という山小屋でレクチャーを受ければ一般の人も入山できる開かれた山で、仕事中もちらちらと数は少ないが熊を見に来た登山客と話す機会があった。
夏場のそのエリアはかなりコアな登山者しか入らず、一日に平均三組くらいが入山する。そんな彼らだから熊については詳しく、またリピーターも多い。何十年と熊の写真を撮り続ける人もいた。新人の私よりも熊の生態に詳しい人が多いから、最初は来る登山者に話を聞いて熊の事を教えてもらったりした。
そして熊の話の途中で高確立で名前が出てくるのが、星野道夫であった。
星野道夫は1952年、千葉県で生れた。慶應義塾大学に入学し、同時に探検部の門を叩き、熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦する。その後、19歳の時に洋書専門店で購入したアラスカの写真集を見たのをキッカケに極北のシシュマレフ村にホームステイをし、そこでクジラ漁を始めとするエスキモーの生活を写真に納め、動物写真家としての道を少しずつ歩む。
大学卒業後、動物写真家田中光常氏の助手を経て、アラスカ大学野生動物管理学部留学。以後18年間アラスカに暮らし、極北の自然と動物の生命の営み、人びとの暮らしを写真と文章で記録し続けた。そして、1996年、カムチャツカ半島で取材中、ヒグマに襲われ急逝。
星野道夫は熊だけを追っていた訳ではないが、彼の作品には熊が多く記録されおり、文章にもまた熊が度々登場する。アラスカの大地へ引っ張り込むその魅力の一つに熊がいた事は間違いないであろう。そして、運命とは不思議というかなんと言うか、最後は熊によって自然へ還って行ったのだ。
私はリアルタイムで星野道夫を知る事は無かったが、死後、端的にまとめられた彼の一生を見つめると、その生き方だけで星野道夫という人物に映画的な、目には見えない何かによって意図された運命のような、非常に心を揺さぶる物語がそこにある。
だからこそ、山に熊を見に来る人の心の中には、高確立で彼がいる。
真実と言葉
イニュニックは、アラスカで暮らし始めた道夫氏の日常を描くエッセイ集みたいなものだ。写真も多く掲載されており読みやすい。そして、他の作品同様、道夫氏の特殊な感性で言葉を重ねていき、冬の寒さや森の静けさ、そこに生きる人々との交流を描いている。文章を読んでいてやはり凄いと思うのは、季節が作り出す風景や気温が伝わって来るという事である。
読者に同じ疑似体験をさせてくれる力量が、その文才が、写真家星野道夫をただの写真家に終わらせなかった所以だろう。そして、その才は誰でもが持っているものではない。感情や感覚を伝える事はとても難しい事なのに、それを、さらりと、静かに書いているんだから驚く。
言葉にすると、その言葉は一旦、真実から離れる。
どういう事かと言うと、私が「悲しい」とあなたに伝えても、あなたの思う「悲しい」と私の思う「悲しい」には乖離がある。どう悲しいかを、これまで生きてきた体験や出来事を混ぜながら伝えなくちゃいけない。そして、私の思う「悲しい」をできるだけ真実に近いものにする為に、沢山の言葉を使って伝える。
事象に関しては楽である。ただ見た事を伝えればいいのだから。しかし、感情や感覚という、頭の中で作り出したもの、心の中にあるもの、目には見えないものを正確に伝えるのは至難の業だ。私事でいえば、過去にやった筏下りの最中、筏の上で何を考えていたかとか、それを終えて何を思ったとか、感情や感覚を人に伝える事がとても難しい。
例えば、「悟り」という概念がある。これも一種の感覚である。その感覚を会得する為に、世界各国の寺院で坊さんは修行を重ねるし、口伝や継承されている仏陀の教えを言葉によって、また行動によって、たった一つの感覚を求めて生きる。そして、言葉は真実から離れるからこそ、沢山のボキャブラリーで真実に近づけ、伝える。宗主の教えがむちゃくちゃ長いのは、致し方がない。
星野道夫はどうだろうか。
この人は、ほとんど最短距離で感覚や感情、内面の動きを伝えている。実にスマートに、静かに。いろんな本を読んできた中でも、彼ほどの文章を書く人を、私は知らない。言葉だけでトリップさせてくれる。しかも日本語で。
アラスカの生活や、そこで生きる人々、動物、自然の事を母国語で読めると言うのは本当に幸せな事だ。翻訳された本は一度、自分ではない「誰か」によって解釈され、訳され、手元に届くから。
よく翻訳された本って苦手、なんて人がいるが、私もその一人。作家って、何かしら文章に癖があると言うか、そういうのが楽しかったりするのだが、海外翻訳の場合、その癖は一度経由された癖になるから、本当の癖を見つけにくいし、なんだかんだどれも同じ作家が書いた様に感じてしまう。
だが、それが無く、アラスカの日々を知れる、読める。これはもうとんでもない幸せだ。
仮にもし、今の時代星野道夫が生きていれば、必ず代表的な文筆家になっていただろうし、彼を目指して文章の世界に飛び込む人も多かったであろう。少なからず、私は彼の文に魅了され、影響され、たまに似た様な言い回しを使ってしまう。それが一番、突き刺さるから。本当だったらオリジナルの単語を繋げた文章にすれば良いのだが、彼の言葉を一度知ってしまうと、どうにもそれ以上の例えが無かったりする。
今から20年前、この世を去った人間の残した言葉は、略語の多い現代社会においてどう受け取られるのか。LINE世代、短文のやりとりが日常になった世代、略語が日常語になった世代は、この本をどう読み取るのか。一度聞いてみたいものだ。
若い世代に、この本を読んで欲しい。
オススメです。
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