【続編】歴史をたどるー小国の宿命(76)

1853年は、江戸幕府が倒れるわずか15年前であった。

第12代将軍の家慶は、1837年から16年間、将軍職に就いていたが、黒船来航で幕府が大騒ぎをしている最中は、病床に伏していた。

そして、ペリーが帰った10日後に、静かに60才で息を引き取ったのである。

その後の将軍は、まだ3代続くのだが、最後の将軍であった慶喜の在職期間がたった1年だったのはよく知られているとおり、第13代と第14代も、それぞれ5年と8年ぐらいしか続かなかった。

第13代は、家慶の四男である家定(いえさだ)が務めたが、病気のため34才で亡くなった。家定の養子だった家茂(いえもち)が、第14代将軍として後を継ぐのだが、こちらもわずか20才で病没したのである。

ペリーは、アメリカの第13代大統領であったフィルモアの国書を持って、1853年に日本にやってきた。

幕府はペリーに対して、将軍の家慶が病臥している状況であり、決定権者が不在だとの理由で、返事を1年待ってもらうことにして、当初はなんとか帰ってもらうことに成功したのである。

ところが、ペリーは日本のこうした混乱状態に付け入って、1年も待たずに、翌年の年明け早々に再び来航した。

すでに、お隣の中国(=清)では、アヘン戦争によって、香港がイギリスの植民地になっていた。

こうした欧米のアジア進出の脅威を前に、幕府はとうとうアメリカの要求を呑み、1854年、日米和親条約を結んだのである。

これは、1639年に3代将軍の家光が完成させた鎖国政策の終わりを意味し、日本は、215年ぶりに、国内2ヶ所の港を開いた。

今の静岡県の下田港と、北海道の函館港である。

当初は、貿易のための開港というより、アメリカが中国をはじめとする東アジアへの航路の途中で物資補給のために日本に寄港できるようにする意味合いが強かった。

だが、この4年後の1858年に、幕府は、日米修好通商条約を結ぶことになる。

1776年にイギリスから独立したアメリカが、その80年後に、イギリスとともにアジアへ進出し、日本は2つの大国のはざまで揺れることになる。

日米修好通商条約締結の年には、新たにフランスも加わり、国内は開国派と攘夷派に二分されるのである。








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