ショートショート27 目が光る犬
「今と違ってとっても小さくてかわいいね」
彼はそう言って私の大きくなったお腹をさする。
「そりゃ、小学生の頃ですもの。それにこのお腹の膨らみは太ったわけじゃありませんからね」
私はそう言ったあと、アルバムから彼に視線を移して微笑む。彼の瞳に映る私の微笑みは、幸せというタイトルが付きそうな絵画みたいだった。そしてそれはつまり、それが見えるほど彼が目を見開いて真正面から私を見ているということだ。
うれしくってたまらなかった。この人との未来には薔薇色の道しかないような気さえした。
アルバムの写真を一枚一枚ながめながら、思い起こされたその頃の思い出を話す。嫉妬してほしくって、当時付き合っていた男の子のことまで話してみたら、まんまと引っかかってくれた。
私が彼の機嫌を直すためにわざわざホットチョコレートを作ってごめんねと言いながら彼の隣に戻る。約束されていた出来事見たいに違和感なく、それらは行われた。
彼はアルバムを見ながら、しきりに顎の髭を触っていた。彼は学生の頃から髭を伸ばしていて、整えることを除けば特に剃ったりしない人。だからこれは髭が気になるってことじゃないってすぐに気がついた。
「どうしたの? もしかしてまだ不機嫌かしら」疑問を少し冗談混じりにいうと、彼は私を見て微笑んだ。
「いやぁ、別に不機嫌なんかじゃあないよ。あ、あとホットチョコありがとう。君がいれたホットチョコはほんといつも絶品だよ。どこか有名レストランで働いた経験でも?」
「あなたと中学から大学まで一緒なのよ。どこにそんなチャンスがあったって言うの」
冗談で強気に出てみようとしたものの、語尾に近づくにつれどうしても言葉が、語感が丸くなっていく。そこらへんに幸せパウダーが舞っているみたいだった。
「お腹の子のためにも、もっとお菓子作りを覚えてあげたいわ」と言いながらアルバムに目を落とす。
すると、そこに写っていたのはローニーだった。
耳が垂れ、まるで服を着せられたのが不服だというみたいにこちらを威嚇している黒い犬の写真。その隣には私とのツーショットのものもある。
この写真の頃はもうすでにおばあちゃん犬で、胸の毛は薄くなり黒というより茶色に近い。
彼の肩を持つ手のひらによみがえる、あの子の毛並みの感触。幸せがどんどん悲しみに沈んでいくような感情に合わせて、手のひらの感触はどんどん水を含んだ毛並みに変わっていく。
「この犬、かわいいね。名前はなんていうんだい?」
「ローニー。小学生に上がるまで飼ってた」
「へぇ、いつごろまで生きてたの?」
彼の口調はほんとうに違和感なくて、でもいまだに私の手から離れない水を含んだ毛並みの感触が邪魔して、うまく彼の違和感のなさにまざれない。
だからだろうか「私が殺したの」と口から出た言葉は冷たかった。言った本人が、これくらいかな、と感じているより冷たく届いたのが、彼の唾を飲む音でわかる。
目が合う。けれど彼は微笑まない。少しだけ目を細くして見つめるその様子は、何も言わないから語ってというサインだ。
「小学生に上がる数日前だったかな。買ってもらったランドセルを店におじいちゃんとおばあちゃんの家にいったの。二人のお家は離れた島にあってね。船で行くんだけど、そこの島は朝早くと夕方しか便がなくって、朝早く行くことになったの」
こすってもまったく開かない目。でも寝起きのせいでいきおいよくはこすれなくって、どちらかというと撫でるような感じだった。目を閉じていても感覚で外まではいけたわ。でも、外に出た途端、空気を風を浴びた瞬間に全く分からなくなった。
それが目を開けたきっかけではなかった。分からないなりにいろいろなところに手を伸ばして、触れたものの形から外にあったものを思い出して、なんとなく進んでいった。
急に眩しくなって目を開いたらすぐそこにローニーがいた。
ローニーは目が光っていた。
「ちょっと待って、目が光る犬?」
「口を挟まないって言ったじゃない。それに何を当たり前のことを言ってるのよ。犬の目は光るじゃない」
「確かにカメラなんかで写真を撮ったり、明るいところから黒いところにいる犬を見たりするとそう見えるけど」
「何言ってるのよ」
ともかく私は驚いて尻もちをついちゃった。背負っていたランドセルが少し汚れちゃってね。それにも関わらずローニーは乗っかってきて顔を舐めるもんだからくすぐったかった。
一瞬それで怒りを忘れそうにもなるんだけど、光る目がずっと眩しいから私やっぱりイライラしちゃって、ついはねのけてしまったの。
出発の時間も迫ってきたから、行こうと思ったんだけど、ローニーは離してくれなかった。乗っかってきたり、服を引っ張ったりして引き留めようとしてくれた。それでついに私のランドセルまでくわえようとしたから叩いたの。それでもやめなかった。
両親は、ローニーは自分だけ置いていくなって言ってるんじゃないか、じゃあこの子も連れて行ってあげましょう。一人でお留守番も可哀想だし。ってひょいとローニーを持ち上げて車に乗せた。
ローニーはさっきまでの抵抗が嘘みたいに車内では静かだった。だから両親もやっぱり連れて行って欲しかったのよなんて言って、途中の朝ごはんで酔ったコンビニではいつもより高いドッグフードまで買い与えてた。ローニーは食べると目がぱちぱち光ってて、あら味の違いがわかるのねってお母さんは笑って、お父さんも笑って、私も怒ってたのを忘れて笑ってた。
「ごめん、やっぱり待って。犬の目って、もしかしてずっと光ってるの?」
「遮らないんじゃなかったっけ」
「ごめん」
「別にいいけど。さすがにずっとは光ってないわよ。気持ちが昂ったら目が光るの。尻尾を振ったり口を開いたり、牙を見せたりするのと一緒」
「へ、へぇ。色は感情によって違うのかい」
「いいえ? 黄色がかった透明一色よ。というかあなたも昔犬を飼ってたって言ってなかったかしら」
「もちろん飼っていたんだけど、どうも僕が知っている犬と違うみたいだ」
「犬種かしらね。続きを話してもいい?」
「もちろん、どうぞ」彼の微笑みに私も同じように返してから続ける。
船に乗ってから天気が悪くなって、運行を中止するかもってなったの。でもやっぱり行きますってなって、荒れ狂う波の中を船は進んでいったの。
船内は停電して、まだ冬だったから暖房が切れて寒くてね。そんな私を心配してか、それとも自分も暗闇が怖かったのかな。ずっと私の周りを照らしてくれてた。
それでどれくらい経ったかしら。あの子が急に吠え出したの。周りのお客さんにも迷惑かかるからって口を塞いだんだけど、ついには船の外を走り回りはじめてね。
犬を追いかけて私も外に出た。犬は私を威嚇して吠えるから近づけなかった。近づいてないのに吠えるのが怖くて、その場で立ちすくんでいたら、急な高波にさらわれて海に落ちたの。
どんどん沈んでいく体。とても怖かったのを覚えてる。
「確かに君はとくべつ雷や大雨を怖がっていたものね」彼はそう言って私を軽く抱き寄せた。もう、口を挟まないでとも言わなかったし、彼も何も話さなかった。
船から落ちて沈んでいく私を見つけたのはローニーだった。私はローニーの目の光にずっと照らされてたから助かったの。
「え? じゃあローニーは、どうなったの」
「そこでは普通に助かったわ。なぜか警察が来てローニーを連れて行っちゃって、それから会ってないの。一度だけ両親に話を聞いたら、海に入って体が弱っちゃってそのまま亡くなったって。それで病院まで連れて行ってくれたんだって」
「い、いやぁ、それは多分違うと......」
彼の表情が困ったように少しだけゆがんだように見えた。と、同時に胎児がお腹を蹴った。
「あっ、蹴った」
お腹をさすりながらつい頬が緩んでしまう。彼も私の膝に頭を置いて、本当だと微笑んでうれしそう。
きっとさっきの困ったような顔は見間違いね。
膝枕のようになった彼の頭を撫でながら、目線を少し上げると目を光らせている犬の写真が見えた。
私たちの幸福な未来を照らしてくれているような気がした。
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