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新宿駅に向かうバス車内で―「ある朝のできごと」—

 私はかすかな振動を感じて目を覚ました。目をうっすらと開けると、紺色の布がピンと張られた座席に、折り畳み式の小さなテーブルとドリンクホルダー、荷物をかけるフックが見える。

 下方を見ると、「走行中はシートベルトを着用して下さい」と記載された紙が網ポケットに入っていた。ああそうだ、新宿駅に行くために高速バスに乗っていたんだっけ、と陽光が射さない曇り空のように、ぼんやりとした頭で考える。バスの車内には上品な老夫婦に、出張らしき会社員の3人しか乗車しておらず、大学生くらいの年代の客は私1人のようだった。バスのデジタル時計は、午前9時35分を示している。

 私は眠気を覚ますように、窓の外の景色を見やった。命の輝きを宿す鮮やかな青色の田や、焦げ茶色の畑が、昭和の残り香を漂わせる点々とした民家とまじって、なだらかに広がっている。

 そのまま窓をのぞいていると、田園風景に代わって、モワモワとした深緑色の葉を茂らす植物や、葉先をほんのり赤く染めたツタがはりついた、くすんだ壁が見えてきた。何となくその壁を目で追い続け、浦和料金所を通過した、その時だった。

 私は、深緑色と赤紫色のラインが入った家畜運搬車に載せられた、黒毛の1匹の牛と目が合った。牛の鼻は、手すりのようなものに縄でつながれ、顔の毛はボサボサとしている。私はその牛の瞳を見つめた。

 それは、何千年も生きた賢人のようでもあり、人知れずひっそりと青い水をたたえる湖のような、深みを帯びていた。同時に運命を見定めた、人を寄せ付けない冷たさが、澄んだ黒い瞳にまじっている。

 ああ、このような瞳を持つ動物の命を日々いただいているのだ、とぽつんと思った。牛から目をそらし、うっすらと血管の浮かんだ、赤みのある手のひらを見る。私の細胞全ては、彼らのおかげで生かされている。

 だから今、私はバスの生暖かい暖房を感じることができるのだ。

 穏やかに注ぐあたたかな朝の陽ざしが、静かにバスの車内を満たしていた。

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