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【説教集×英語学習14】 神の神殿はどこに #224

2024年3月17日(大斎節第5主日)



説教集より

Certaine Sermons or Homilies 1547-1571, Rickey and Stroup, 2nd ed, 1993, II, p78-79.

Moreover, the church or temple is counted and called holy, yet not of itself, but because God's people resorting thereunto are holy, and exercise themselves in holy and heavenly things.

さらに、神殿たる教会堂は、それ自体が聖であるというよりは、そこに集う神の民が聖であり、聖にして天なるさまざまなことを行うことから聖であるとされ、そう呼ばれます。(第二説教集3章:全訳はこちら↓)


ヨハネのひとこと

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです(Ⅰコリ6:19)。」

「神の神殿と偶像とにどんな一致がありますか。私たちは生ける神の神殿なのです(Ⅱコリ6:16)。」

パウロはかくも熱く、信仰を持つ者の身体こそが神殿であると訴えています。「神の神殿」とは建造物としての教会ではありません。わたしたち一人一人がそれであり、ひいてはその一人一人によって構成される信仰の共同体たる教会を指します。

わたしたち一人一人が神の神殿であるとはどういうことでしょうか。それは、信仰を持つわたしたち一人一人に三位一体の聖霊が宿っているということです。聖霊なる神様を受け入れ、御心に適い、たとえどんなに困難ななかでも希望を持って生きましょう。わたしたちは生ける神の神殿。聖霊によってわたしたちのなかに宿る神様はわたしたちのなかで生きておられるのです。


英文の解説

文頭の moreover は文接続副詞。「さらに」の意味です。前の内容を受けて次の内容につなぐ言葉です。ちなみに前のところでは、「神が人間の手で造られた教会堂にお住まいになるはずがない」ということが述べられています。それを受けてのこの文です(詳しくは全訳をご覧ください)。この moreover に続く the church or temple が主語、is counted and called が述語動詞、holy が補語という構造です。the church or temple の or は「すなわち」といった意味で前後の名詞を同格的につなぐもの。「神殿たる教会堂」の意味になります。

count はそもそも「~を…と思う」の意味で第5文型で用いられる語で、call も第5文型で「~を…と呼ぶ」の意味で用いられます。能動態であれば第5文型のものが、受動態になって第2文型となっているということになります。直訳をとれば、神殿たる教会堂が「聖であるとされ、そう呼ばれる」という意味になります。

続く yet は「しかし」の意味の接続詞で、そこからの yet not of itself のところには省略を補う必要があります。省略を補うと yet it (= the church or temple) is not counted and called holy of itself となります。再帰代名詞を用いた of oneself の形は現代英語でもよく目にしますが、「それ自体として」の意味です。したがって省略を補って和訳を施せば、「しかし神殿たる教会堂がそれ自体として聖され、そう呼ばるのではない」という和訳になります。ただ全体の和訳をするときは、流れを崩さないように、また、省略を踏まえつつ意味を補い、「それ自体が聖であるのではなく」という形で収めます。

この yet not of itself の not は、ここに続く but because の but と相関をなしていて、not A but B つまり「AではなくB」の形を作っています。ただ、言わんとすることの意味を考えると、その和訳では強すぎる(そう訳してしまうと、教会堂が神聖ではない、などと捉えられかねない)ので、「A というよりは B」という日本語で整えます。

この because ですが、実は文の構造上、必要のない語ではあります。the church or temple is counted and called が文前半の SV で、等位接続詞 but に続く(後述もしますが)God's people are … and exercise が文後半の SV ですので、接続詞 because はもはや必要ありません。しかし、前述の of itself の言わんとするところが「教会堂が聖とされそう呼ばれているのはそれ自体として聖であるというよりは」という「理由」の意味も持っていると見れば、ここに副詞として because が単体で置かれ、not A but B の相関構文と相まって、そうではない別の理由を明示するのに用いられていると考えることができます。説教を読み上げるときの聞き手を意識したものと考えられます。ここまでをトータルすると、大雑把な意味は「神殿たる教会堂はそれ自体が聖であるというよりは、『〇〇〇だから』聖とされ、そう呼ばれる」となります。 

but because のあとの幹となる構造は、主語が God's people で述語動詞が are と exercise です。God's people を現在分詞 resorting が修飾しています。God's people resorting thereunto で「そこに集う神の民」という意味になります。なお、thereunto は副詞 thereto の古語です。むろん、「そこ」とは「神殿たる教会堂」です。are holy が続きますので、「そこに集う神の民が聖である」の意味となります。

この are holy の are と等位接続詞 and で結ばれている動詞 exercise はよく自動詞としては「運動する」の意味で、他動詞としては「~を動かす」の意味で用いられますが、ここでは他動詞で、次にある再帰代名詞 themselves を目的語にとり、「自分自身(神の民)を動かす」の意味になります。「行いを為す」と訳しました。in holy and heavenly things は複数形名詞 things を踏まえて「聖にして天にあるさまざまな事柄において」の意味になります。そうすると「聖にして天にあるさまざまな事柄において行いを為す」と、やや冗長な日本語になるので、「聖にして天にあるさまざまなことを行う」という和訳にしました。


英文の見取り図



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